丹波でめぐる明智光秀ゆかりの地⑦波多野秀治の墓の壱
季節と時節でつづる戦国おりおり第474回
波多野秀治ゆかりの高城屋敷門を堪能したら、北へ上るとしましょう。二階町通りは料理旅館・丹波名産の栗や小豆などのお土産屋さん、有名なパン屋さんなどが並ぶ観光ストリートですが、それを西へ進むとすぐ誓願寺というお寺があります。
こちらは波多野秀治が創建した浄土宗寺院で、慶長15年(1610)現在の地に移転したという、まごうことなき「戦国時代の息吹を感じられる」場所ですね。四つ脚の楼門が見事です。
境内の墓地に入らせていただくと右側にある苔むし黒ずんだ墓石が、秀治のお墓。
戒名は「大雄院殿英山玄功大居士」と刻まれていて、水鉢に入っている家紋は、一見「丸に十字」のように見えますが、島津家や諏訪大社の守矢家で有名なその紋章ではなく、「丸に抜け十字(丸に出十字)」というものです。
秀治は天正4年(1576)1月にそれまで協力していた明智光秀に対し突如反旗をひるがえして、黒井城(赤井直正の本拠)の周囲12、3箇所に付城を築いて包囲陣を敷いていた明智勢を打ち破り、敗れた光秀は命からがら京へ逃げ、本拠地の近江坂本にたどりつきます。2年後に八上城で光秀を迎え撃った秀治は籠城で厳しく抵抗を続けたものの、兵糧も尽き、城内では草木の葉だけでなく牛馬まで屠って食べるという惨状を呈したあげく翌天正7年(1579)6月1日に寝返る者が出て弟の秀尚・秀香ともども捕縛されて安土に送られ、磔に架けられて果てました(諸説あり)。
『総見記』『柏崎物語』という江戸時代の軍記物には光秀が母を人質に入れて秀治らと和議を結び、秀治を城外におびき出して襲ったために母が殺されたなどという話が載っています。これが時代が下った『絵本太閤記』になると、信長が秀治らを処刑してしまったために光秀の母は殺され、それを恨んだ光秀がのち本能寺の変を起こす原因となったことにされていますが、言うまでもなく創作で、史実ではありません。