「日本一の兵(つわもの)」真田信繁(幸村)の最期
季節と時節でつづる戦国おりおり第476回
406年前の慶長20年5月7日(1615年6月3日)、真田幸村が大坂夏の陣で奮戦し討ち死に。
徳川対豊臣の最終決戦は、圧倒的な兵力差の徳川軍に包囲された豊臣方にとって絶望的な状況下でおこなわれました。大坂城から出て茶臼山に陣取った幸村は、正面の越前・松平忠直隊に対して「真丸(マンマル)に成りて」縦横突入し、追い立てました。
さらに、紀州街道をのぼって来た紀伊・浅野長晟の部隊が今宮村方面から松平隊の西に進軍して来るのを見た者の中から「浅野殿、裏切り!」の声があがり(『元和先鋒録』)、大混乱が発生します。
一説にはこれは幸村の手の者の工作で、背後に敵が回った時に後方部隊が逃げ崩れ、それが前線の破綻に及ぶ「裏崩れ」が起こったのでした。
松平隊の後ろ、平野から桑津村(天王寺東南)を経て陣を進めて来ていた家康の本軍がこの混乱に巻き込まれ、大崩れを起こします。
『三河物語』はこの時「家康の身辺には、騎乗の身分の者は小栗忠左衛門尉(久次)しかいなかった。三方原の戦いで武田信玄に負けた時以外は一度も崩れなかった旗印が崩れた」と記録し、イエズス会の宣教師も「家康は絶望して切腹する寸前まで追い詰められた」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)と報告しました。
家康はこの時、30町(3.3km)も逃げ(『渡辺幸庵対話』)、彼の旗本は、その4倍の3里(12km)も逃げたそうです。(『薩藩旧記雑録』)
しかし、多勢に無勢、じょじょに幸村の兵は討ち減らされ、体力の限界に達した隊は3回目の突撃で全滅し、幸村も安居神社で松平隊の西尾仁左衛門という鉄砲頭に討ち取られました。
島津家では国元に「真田日本一の兵(つわもの)」と、その武功を報告しています。
幸村の首は家康の実検に供されましたが、幸村の叔父・真田信尹は幸村の首とは思うが、死んで人相が変わっているから、確実には見定められない、と言上して家康の不興を買いました。
家康としては、自軍を大混乱に陥れた幸村を、たとえ不確かではあっても討ち取ったと全軍に宣伝し、将士に安心感と勝利への確信を与えたかったのでしょうが、信尹はそれをおそらく知っていてなおかつ幸村の首を売るようなマネはしたくなかったのでしょう。
ちなみに、幸村とほぼ同時に彼の軍監(いくさめつけ。豊臣家から幸村との連絡と監視のために附属された)・伊木遠雄も討ち死にしています。
遠雄は秀吉の親衛隊・黄母衣衆の一人で、一般にいわれる幸村の生年と同じ年の生まれです。
大坂冬の陣で真田丸を守った幸村の軍監となって以来、ふたりのコンビは最後まで続きました。
同い年の幸村とは関ヶ原牢人仲間という事で話も気も合ったのでしょう。
信尹といい遠雄といい、幸村の周囲にはこういう人間的交流をうかがわせる男たちが多く集まっているようです。
幸村の戦死の翌日、大坂城も紅蓮の炎に包まれ、豊臣秀頼・淀殿母子も城と運命を共にしたのでした。