薩摩藩の遠見番所と台場
外川淳の「城の搦め手」第76回
遠見番所とは、徳川家光が鎖国令を下すとともに、南蛮船の襲来に備え、海岸の要所に築かれた監視施設。
幕府は、ポルトガルに対して日本への通航を禁じるとともに、艦船の襲来や密貿易や密入国を恐れ、海岸線の防御を諸大名に下命した。
遠見番所は、眺望の開けた高台に設置され、昼夜通しての警備体制が敷かれた。
薩摩藩では、領内の21箇所に設置されるなど、九州を中心にして、全国に遠見番所は設置された。
鎖国令が下されたのちも、ポルトガル船は何度か通航の再開を求めて来航したため、緊張感は継続された。
だが、17世紀後半になると、警備体制は徐々に簡略化され、19世紀になり、外国船が日本近海に出没するまで、遠見番所は経費削減の対象となって整理されていく。
だが、薩摩藩では琉球との間を往復する船舶の安全の確保と、侵入者の防止という二つの目的により、遠見番所による警備体制を継続させた。
脇本遠見番所は、肥後天草との境にあたる半円状の半島から、さらに南へ突き出た半島の南端に位置する。
番所跡には稲荷神社が鎮座。神社境内には史跡案内板が設置される。 江戸時代後期には、遠見番所内に台場が設置された。
遠見番所の台場転用の事例としては、和歌山県の雑賀崎番所や、静岡県の三穂ヶ崎番所があげられる。
以上2例では、番所として築かれた土塁の一部が切除されることにより、砲座として利用されている。
だが、脇本台場では(4)から(7)の石垣には切除面は認められなかった。
大河ドラマ『西郷どん』も幕末から明治に突入する。そのような関連から、薩摩藩関連の話題を取り上げてみた。