京都守護職・松平容保、責任感の強さが招いた会津の悲劇!?
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第49回 ~松平容保~
〇日柱の干支:「癸未」(みずのとみ)
これは、「癸(みずのと)」は自然界の物質に表すと雨、「未」は季節で夏を意味することから、「癸未」は夏の雨と解釈できる。夏の雨と言ってイメージされるのは、梅雨だろうか。暗くどんよりした日が続き、高温多湿でムシムシすることから嫌がる人も多いだろう。しかし、梅雨は農作物にとっては恵の雨であり、私たち日本人の生活にとって欠かせないものとされてきた。農家の人たちは、梅雨の雨を頼りにして田植えをし、夏の間も十分な量の田の水を確保できる。このように「癸未」の人は一見何をやろうとしているのかわかりにくく地味だが、縁の下の力持ちであり、潤いを供給する人物であるといえる。容保の存在、その精神性は今でも旧幕府軍、新政府軍問わず全国各地で語り継がれている。根底から影響を与える人物なのだろう。
続いて、通変星、蔵干通変星から容保の性格を読み解いていく。通変星、蔵干通変星をわかりやすく円グラフに表すと下記のようになる。
知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く、物事を論理的に捉えることが上手
行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる
人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。
自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。
遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。
〇人脈40%!(正財)
人脈は、さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる星。中でも、「正財(せいざい)」は重要な人物を見抜いて強い信頼関係を築ける、真面目な星。誰に対しても優しく、コミュニケーション能力が高いが、お人よしすぎる面もある。結婚運の星でもある。
京都守護職として、幕府と朝廷の調整役を担っていた容保だったが、当時の孝明天皇から熱い信頼を得ていた。孝明天皇は容保の2つ年上で、年が近いということもあったのだろうが、孝明天皇が容保に信頼を寄せたのは、松平春嶽、一橋慶喜らが次々に京都を去った中で、容保だけが一人京都に残ったことが大きな理由だろう。さらに八月十八日の政変でも身をなげうって京都の町を守った。天皇とはいってもまだ若く孤独な思いをしていた孝明天皇にとって信頼のおける人間だったのだろう。天皇からも御製も賜った。「和らくも 武き心も 相生の 松の落ち葉の あらす栄えん」「武士と 心あはして いはほをも 貫きてまし 世々の思ひ出」内容はまさにラブレター。孝明天皇から容保に贈られた御宸翰は百通以上にも及ぶ。
そんな孝明天皇の崩御の知らせを聞くと、もともと体調を崩していた容保の病状は一気に悪化。孝明天皇の大葬には病をおして参列したが、頬はこけ、歩くのもやっとという状態だった。晩年の容保は、長さ20センチほどの竹筒に孝明天皇から賜った御製を入れ肌身離さず、入浴の時以外にははずさなかったという。その中に何が入っているかは家族にも話さず、亡くなって後、明らかになった。幕府にも朝廷にも頼られ、その極みには天皇からの信頼を得た容保。コミュニケーション能力が高かったのだろう。
〇遊び心30%(食神)
遊び心は、生活に遊びを取り入れることが自然とでき、芸術面での才能がある星。「食神(しょくじん)」は、おおらかで遊び好き、子どもが好きで子宝に恵まれる。
敗戦ののち、斗南藩から東京に戻った容保は、表に出ることはせず、読書と歌を詠むという毎日を送っていた。京都守護職を引き受けたがため、悲劇に巻き込まれてしまったが、もともとはこんな穏やかな生活が好きだったのだろう。
また、容保のおおらかさを感じるエピソードが残っている。あるとき、旧会津藩で行われた招魂祭に容保が出席した。例年出しているお膳では容保に失礼になるだろうと、容保のお膳は特別なものを作った。しかし、いざ直会になってもお膳に箸をつけない。容保にお膳を勧めると、「みんなと同じものか」と尋ねた。「いいえ、違います」と答えると、「みんなと同じものを持ってきてくれ」と告げ、「この慰霊祭に参列するのは美酒佳肴を食べたいからではなく、参列した人々と旧を語り古を偲び亡霊を弔うことにある」と話した。参会した人たちと同じものを出すと、容保は手を付けたという。
〇知性20%(印綬)
知性は何かを学ぶことが好きで、物事を論理的に捉えるのが得意。「印綬(いんじゅ)」は、学校の勉強がよくできて、幅広い知識を持っている。人に教えるのも好む。
容保は高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男として生まれ、12歳の時に第8代会津藩士、松平容敬(かたたか)の養子となる。会津に赴いてからそれほど日がたたない頃、「追鳥狩」という軍事繰練が行われた。全軍を先鋒、左翼、右翼、本陣、殿に分け、会場である大野ヶ原に野営をして、夜明けとともに本陣の法螺貝を会津に全軍が鳥を追うというものである。この時の容保の采配ぶりは見事だったようで、重臣たちは「土津公(保科正之)の再来だ」と話したと伝わる。軍事に必要な知識、知恵を身に付けていたのだろう。
〇行動力10%(正官)
行動力は、頭で考えるよりも行動で結果を出そうとする星。中でも「正官(せいかん)」は、真面目でプライドが高く、責任感が強い星。正財とあいまって、相当頑なな人物であったのだろう。
京都守護職をめぐっては、この容保の性格がよく表れている。徳川慶喜や松平春嶽から京都守護職の任を依頼された容保だったが、当時、容保自身が病に伏しており、藩財政も厳しかったため、その任を頑なに固辞していた。そんな中、慶喜はある家訓を挙げて、容保に迫った。会津藩の祖である保科正之が残した会津藩家訓で、その内容は、「徳川家に忠義を尽くせ。それをもし破るならば、私(保科正之)の子孫ではない。」というものだった。会津藩ではこの家訓が精神的支柱であり、絶対的な力を持っていたが、これを挙げて「保科正之公ならお受けしたはずだ」と言われると、容保ももう断り切れない。家臣の反対を押し切って京都守護職の任を引き受けた。
孝明天皇が崩御された後、自身も体調を崩した容保は、京都守護職の辞表を幕府に提出した。しかし、幕府は大反対。老中の板倉勝静と京都所司代の松平定敬が辞職を思いとどまるよう懇願した。会津藩の守りなくして薩摩藩を抑えられないと考えたからである。しかし、その後も容保の決意は変わらず、今度は朝廷に対して辞職と帰国の意志を伝えた。その強い決心に対し、幕府は最後の賭けに出た。幕府は駿府への領地替えを提案したのだ。駿府といえば、京と江戸の中枢であるだけでなく、徳川家康の終焉の地であり、容保にとって思い入れの深い地だ。「その沙汰をしばらく待つように」と言われ、待っているうちに大政奉還となり、ついには幕末の動乱の渦に巻き込まれて行った。今にして思うと、おそらくこれも容保を引き留める幕府の策だろう。真面目で責任感の強い容保の性格を幕府がよく理解していたと考えられる。
〇自立心0%
自立心は、他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。容保はこの能力を持ちあわせていなかったようだ。
これまで見てきたように、幕府からの翻弄のされ様を見ても納得できるところがある。さらに、王政復古の大号令で実質的な権力が新政府側に移ると、これまで敵対していた会津藩への積年の恨みを晴らすかのように、京都守護職を解任したり、朝議に参加させなかったりするようになる。この対応に、会津藩士たちは「君辱しめらるれば臣死す」と憤激。容保は家臣たちの怒りを抑えようとするものの、彼の力だけではどうにもできずに押し切られ、新政府と徹底抗戦する覚悟を決めてしまった。真面目で優しく、お人よしな性格も相まってだろうが、自立心がないことで周りに流されてしまったのだろうか。
続いて、十二運星を見ていく。