聖徳太子を殺していちばん得をしたのは誰か
聖徳太子の死にまつわる謎⑱
そのうえ、蘇我氏みずから新たな大王家を作ろうとした気配すらうかがえる。
たとえば、先述した太子の娘・上宮大娘姫王の訴えにみられるように、蘇我氏は上宮王家の土地をねらっていた様子があり、また『日本書紀』舒明天皇8年(636)秋 7月の条には、敏達天皇の子・大派王の豊浦大臣(蘇我蝦夷)に対する苦言として、次のような発言が載る。
「役人や大臣のなかには、最近朝参を怠る者がいるが、これからはしっかりと時間を決めて出仕するように」
これに対して蝦夷は、大派王の忠告を明らかに無視していることから、蘇我氏はここに及んで朝廷の意向にそぐわぬ行動を平気でとるようになっていたと推測される。
さらに皇極元年(642)、舒明天皇の皇后だった皇極天皇が即位し、蝦夷の子・ 入鹿が実権を握るころになると、蘇我氏の暴走を止める者はもう誰もいなかったという。
『日本書紀』皇極元年(642)是歳の条には、蘇我氏が葛城の地に一族の祖廟を建設し、「八つらの舞」を披露したことが記されている。「八つらの舞」とは中国の習俗で、これを行えるのは天子のみとされていた。したがって、ここにも蘇我氏の傲慢な姿勢が暗示されている。
(次回につづく)
〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より
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