あなたの半径5メートルの悩みに答える「哲学」3選
バタイユ、フーコー、ドゥルーズ
②すでに「フーコー」が警告していた個人情報の問題
■巧妙な監視で作られる「従属する主体」
1966年に出版された、ミシェル・フーコー(1926〜1984)の著作『言葉と物』は当初、構造主義の書として読まれました。同書はベストセラーになって、フーコーは一躍、構造主義の旗手と呼ばれるようになります。ただ、本人は構造主義とは距離を置いていたようです。
フーコーは著作『監獄の誕生 監視と処罰』で、社会を非常におもしろい視点で分析しています。そのおもしろさは恐ろしくもあるのですが。
人間は自分を監視して、自分を服従する主体に仕上げてしまうところがある。その際には、微視的な権力がどんどん働いて、人間はそれを内側に取り込んでしまう。フーコーはそのように言います。
これだけではわかりにくいでしょうから、説明を加えてみます。
フーコーはパノプティコンを使って権力について考察しました。パノプティコンはイギリスの思想家、ジェレミー・ベンサム(1784〜1832)が考案した監獄の建築様式です。
パノプティコンの中心に監視塔が置かれ、そこにいる監視員は周りにいる囚人たちを見ることができます。一方、囚人たちが見ることができません。囚人たちはガラス張りの部屋に入れられ、監視員たちはマジックミラーのある部屋から見ている感じです。囚人たちは独房に入れられているので、連絡を取り合うこともできません。監視する側からすると、非常に便利で効率のよい建築様式です。
この状況が続いていくと、どうなるでしょうか。囚人たちが常に見られているという意識が働くため、自己規制も働いて、妙なことはできなくなります。囚人たちには監視塔の内部は見えないから、監視等に監視員がいなくても、やはり自分を規制することになります。
誰に命じられたわけでもないのに、勝手に自分で自分を監視するようになるのです。このようになった人のことをフーコーは「従属する主体」と呼びました。
■微視的な権力に警戒せよ
囚人だから、仕方ないよな。そんなふうに思う人もいるかもしれませんが、このやり方は学校や会社などで応用することができます。
たとえば、会社のオフィスや廊下などに監視カメラを設置しておけば、社員は自分で、自分の行いを規制して、ひと休みしようともせず、経営者や上司の期待に応えようと行動するようになるでしょう。
経営者や上司がときおり社員を呼びつけて「あなた、サボっていましたね。しっかり見ていましたよ。次、同じようなことがあれば、減給にしますよ」などといえば、監視カメラの効果がいっそう上がります。
このようなことをすると、少なくとも短期的にはその会社の売上げや利益は上がるかもしれません。しかし、社内の雰囲気は悪化し、オフィスには澱んだ空気が漂うようになるでしょう。
監視する側は暴力などの強力な力を使っているわけではありません。監視しているだけです。でもこれが大きな力を持つ。人を言いなりにさせ、自ら服従する存在に変えることもできる。こうした力をフーコーは微視的な権力と呼び、その恐ろしさを喚起しました。
■現在の日本社会にも当てはまる警告
日本では、2016年からマイナンバー制度が導入されました。これによって、行政手続きが簡素化され、国民が行政サービスを受けやすくなりました。
しかし一方、マイナンバー制度によって得られた個人情報が〝悪用〟される危険性もあります。あるいは、収入、貯蓄、過去の経歴、健康状態、さらには遺伝子情報まで行政側が把握できるようにでもなったら、その個人情報はどのように使われるかわかりません。
放送法の規定のもとに「テレビの放送の内容によっては電波を停止することもありうる」と、総務大臣が発言したこともありました。
そうなると、メディアは自己規制するようにもなります。「いつも監視しています。番組をチェックしています」などと、総務省などから言われたら、メディアは政府に批判的な番組をつくるのを自粛するようにもなるでしょう。反対に、政府に気に入られるような番組ばかりを制作するようになるかもしれません。これでは、メディアは「従属する主体」です。
かつてヨーロッパでは、王族や教会が絶大な権力を持っていました。しかし今、欧米も日本も、そうした大きな権力に国民が縛られることはほとんどありません。
しかし代わりに、諸々の制度や人々の目が私たちを監視する社会なりつつあるのかもしれません。フーコーはそうした社会のありようは危険であると、訴え続けました。
背景には、フーコーが同性愛者だったことも関係しています。同性愛者への偏見や差別に対する怒りが監視社会への鋭い眼差しを生んだともいえます。