オリンピックに大阪万博。日本人よ、浮かれている場合じゃない
国の凋落を示す最後の「サーカス」になるかもしれない。
■当時と今との違い
しかし、この構図を安易に利用すると間違える。そもそも当時と今とでは社会の質が違う。
現在のわが国においては、バラ撒きどころか緊縮の極みである。重税路線は古代ローマと同じだが、市民にパンが配られるどころか、ギリギリの生活をしている貧困層が自分たちのクビを絞める政権を支持していたりする。「肉屋を支持する豚」というネット用語がある。これは、アニメやマンガの規制を推進する自民党を支持するアニメオタクを揶揄する言葉だったが、そこから、貧乏なのに新自由主義を唱える情弱のネトウヨなども含まれるようになった。
古代ローマの市民が愚民化政策により政治に無関心になったというなら、現在の大衆社会で発生している現象は真逆である。
大衆は政治に対して無関心どころか、政治に口を出したくてたまらないのである。彼らは新聞や雑誌、テレビニュースを熱心に見る。そして政治に無関心であったほうがいい人間が大きな声を上げ、しまいには政治を知らない人々が政治家になり、政権の中枢に居座るようになる。
スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883~1955年)は言う。
《近年の政治的変革は大衆の政治権力化以外の何ものでもないと考えている。かつてのデモクラシーは、かなり強度の自由主義と法に対する情熱によって緩和されたものであった。(中略)自由主義の原則と法の規範との庇護によって、少数者は活動し生きることができたのである。そこではデモクラシーと法および合法的共存は同義語であった。今日われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているのである。今や、大衆が法を持つことなく直接的に行動し、物理的な圧力を手段として自己の希望と好みを社会に強制しているのである。今日の新しい事態を、あたかも大衆が政治にあき、政治の運営を専門家にまかせきっているのだというふうに解釈するのはまちがいである。事実はまったくその逆なのである》(『大衆の反逆』)