オリンピックに大阪万博。日本人よ、浮かれている場合じゃない
国の凋落を示す最後の「サーカス」になるかもしれない。
■売国奴と「水メジャー」
先日、一緒に食事をした神戸大学の先生が「今の学生たちは共通の経験を持っていない。誰もが見た映画や誰もが聞いた音楽というものが存在しない」と言っていた。そもそも今の若者はテレビを見ない。趣味が細分化された結果、誰もが興味を持つ「サーカス」も存在しなくなった。オウム真理教の麻原彰晃(1955~2018年)をはじめとする幹部らの大量処刑も、それほど大きな注目を集めたとは言い難い。
人間が持っている野蛮な本能を政治に利用する手法自体は大昔から変わらないが、現在わが国で定期的に行われているスケープゴートの設定と総バッシングも、あまり長続きしなくなってきている。
古代ローマの繁栄を支えたのは道路網と水道の整備である。「ローマは一日にして成らず」「すべての道はローマに通ず」という言葉があるように、長い年月をかけて帝国の隅々にまで公道がつくられた。また、紀元前312年から3世紀にかけて古代ローマで建築された水道は、都市や工場地を拡大させた。古代ローマ滅亡後1000年以上も、これに匹敵する水道はつくられることはなかった。
一方、わが国で進められていたのは「水道の民営化」を含む水道法改正だ。その目的は「水メジャー」と呼ばれる外資への命綱の売り渡しである。
たしかにユウェナリスは古代ローマの不正を鋭く風刺した。
《じっさい、いったい誰が首都の不正に耐えられるのか》
《悪徳がこんな豊かに、実った時があったか》
《悪徳がこんな豊かに、実った時があったか》
しかし、ユウェナリスがローマの没落を歌った後も、帝国は拡大を続け、300年以上にわたり権勢を維持したのだ。
一方、19世紀半ばあたりから次々と登場した近代大衆社会論においては、将来に関する楽観的な見通しはほぼ皆無である。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)は言う。
《私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来たるべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。この歴史はいまではすでに物語られうる。なぜなら、必然性自身がここでははたらきだしているからである。この未来はすでに百の徴候のうちにあらわれており、この運命はいたるところでおのれを告示している。(中略)私たちの全ヨーロッパ文化は長いことすでに、十年また十年と加わりゆく緊張の拷問でもって、一つの破局をめざすがごとく、動いている、不安に、荒々しく、あわてふためいて。あたかもそれは、終末を意欲し、もはやおのれをかえりみず、おのれをかえりみることを怖れている奔流に似ている》(『権力への意志』)
近代は前近代に戻ることのできない構造を持つ。ニーチェが言うように、人間は蟹にはなれない。
《人は前方へと、言ってよいなら一歩一歩デカダンスにおいて前進せざるをえないのである》(『偶像の黄昏』)