オリンピックに大阪万博。日本人よ、浮かれている場合じゃない
国の凋落を示す最後の「サーカス」になるかもしれない。
■近代特有の病
近代には近代特有の病がある。
デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール(1813~55年)は、大衆の本質を「第三者」「傍観者」と規定した。水平化・平等化された近代社会においては、傑出した人間は軽視され、疎まれ、引きずり降ろされる。そこに働くのは嫉妬の原理だ。そして個人が完全に等価になった結果、価値判断の道具として多数決が導入される。そこでは頭数を揃えることだけが求められる。
あらゆるトピックに対し、誰もが口を出し、一切責任をとらない。インターネットのブログや掲示板、SNS、ツイッター……。
ドイツの哲学者オスヴァルト・シュペングラー(1880~1936年)は「人生の意義をなすもの」が軽視され、「多数者の幸福」「安易と快適」「パンと芝居」が重視される社会に、文明の最終段階を見いだした(『西洋の没落』)。
シュペングラーは歴史をイデオロギー(史観)ではなく、「生きているもの」「動いているもの」として読み解いた。そして咲いた花がやがては枯れるように、われわれの文明が末期に近づいていることを示した。
もちろんその背後にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832年)の形態学・観相学、あるいはニーチェやフランスの哲学者アンリ・ベルグソン(1859~1941年)の仕事がある。
そのほかにも、美術史家のヤーコプ・ブルクハルト(1818~97年)やフランスの社会学者ギュスターヴ・ル・ボン(1841~1931年)など多くの人々が、近代大衆社会がハードランディングに向かう構造を示してきた。
ドイツ出身の哲学者ハンナ・アレント(1906~75年)は、彼らの予言はより恐ろしい形で現実化したと言う。そこでは「民主主義と独裁、モッブ支配と専制の間の親近性」という古代にはよく知られていた教えが幾度となく取り上げられてきたが、「(近代大衆社会が行き着いた先は)徹底した自己喪失という全く意外なこの現象であり、自分自身の死や他人の個人的破滅に対して大衆が示したこのシニカルな、あるいは退屈しきった無関心さであり、そしてさらに、抽象的観念に対する彼らの意外な嗜好であり、何よりも軽蔑する常識と日常性から逃れるためだけに自分の人生を馬鹿げた概念の教える型にはめようとまでする彼らの情熱的な傾向であった」(『全体主義の起原』)。
古代ローマと近代社会では、権力の形態も悪の形態も違う。専制は前近代において身分的支配層が行うものだ。古代ローマは皇帝が支配する専制だったが、独裁は近代において国民の支持を受けた組織が行う。
こうした構造の変化を最も早い段階で見抜いていたのがフランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805~59年)だろう。
トクヴィルは全体主義の到来を宣言した。それは多くの場合、穏やかで人々を苦しめることなく堕落させる「民主的な専制」という形をとる。