小石川伝通院を歩く②天下人の孫娘
季節と時節でつづる戦国おりおり第357回
■徳川女性人のお墓
於大さんのお墓にご挨拶して一番奥の方へと進むと、少し低く開いた空間となりますが、そこに一段と巨大な墓所が見えて来ます。
家康の跡を継いで徳川二代将軍となった秀忠の娘、豊臣秀頼の正室、本多忠刻の正室。華やかな悲劇をまとい続けた女性は、寛文6年(1666)70歳で亡くなると曾祖母・於大の菩提寺であるここに葬られました。
秀頼は言うまでもなく、2人目の夫・忠刻も姫路で眠り、千姫はひとりこの伝通院に。曾祖母がいるのがせめてもの救いでしょうか。
墓域の戦国時代関係者では、あとひとり女性のお墓があります。
家康の39歳下の側室で、若いだけに16人いた側室の中で最後まで存命した方です。
兄は長谷川藤広。ちょっと前に藤広さんのお墓がある滋賀県の西教寺さんを紹介しましたが、その記事を書いているときに伝通院さんを訪れたので、不思議なめぐりあわせに驚かされました。
家康との間に子は無く、お一人で休んでおられます。
伝通院にはこの他に三代将軍家光の正室・孝子さん(本理院。関白・鷹司信房の娘)のお墓もありますが、こちらも夫との仲は良くなく不幸な結婚生活を送り、ひとりここに眠っているわけで、於大さんを除けば幸薄い女性たちの拠り所という雰囲気を醸し出しております。