道の奥の奥、「みちのく」の古墳を巡る。 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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道の奥の奥、「みちのく」の古墳を巡る。

古代遺跡の旅【第4回】 

【古代・北の防御ラインを見る〜白河へ〜】

都をば 霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く 白河の関
 
 平安時代に能因法師によって詠まれた白河関。古代から、ここは北への防御の最前線だった。人やものが東国から北上し、また北から南下する、その往来を監視し、さらにヤマト王権の敵、蝦夷の侵略を防ぐ最北のボーダーラインだった。

 白河関のすぐ南は栃木県との県境。東国とみちのくの、まさに国境の関が、白河関なのだ。

 筆者は以前、栃木県の古墳を取材で巡ったことがあるが、栃木といえば最北エリアである那須の地に築造された上侍塚古墳と下侍塚古墳、さらに駒形大塚古墳、那須八幡塚古墳、ともに前方後方墳の4基を思い出す。案内してくれた研究者の方は、被葬者はいずれもヤマト王権から派遣された司令官のような立場の人物ではないか?という説を教えてくれた。

 那須の地には那須官衙(かんが)跡があり、国境を北に越えれば、白河郡衙(ぐんが)遺跡がある。古くから、栃木〜白河関にかけての、「東国とみちのく」の境は、なんとしても守り抜かねばならない軍事境界線だったのだろう。

 

【もしや国造の墓?下総塚古墳(しもうさづかこふん)】

 この白河の地に、なんとも魅力的な古墳がある。

 突き抜けるような青空の下をてくてく歩いていくと、田んぼの真ん中に明らかな高まりが見えてきた。ああ、いい古墳だ。緑の草に覆われて、田園風景の中で風に吹かれ、実に気持ちよさそうに深呼吸をしているような古墳である。

 このあたりは「舟田中道遺跡(ふなだなかみちいせき)」といって、古墳時代の有力な豪族の居館があった場所だという。

 下総塚古墳は調査の結果、基壇を有するタイプの前方後円墳で、墳長は71.8m、埋葬施設は、後円部にあって、南に開口する横穴式石室であることがわかった。築造はおそらく6世紀後半。古墳の規模や前方後円墳という形、埴輪も見つかっており、また、「舟田中道遺跡」の居館との関係や年代が近いことなどから、被葬者は「白河国造」ではないか?という説があるそうだ。

青い空の下、緑の山々を背景に、気持ちよさそうに明るい緑の古墳が一基、出迎えてくれる。

 古墳の周囲には、「舟田中道遺跡」のほか約1300年前から250年間にわたって古代白河郡を統治していた白河郡役所跡、「関和久官衙(せきわくかんが)遺跡」や、借宿廃寺跡(かりやどはいじあと)などがあり、古墳、国造、役所、地域のリーダーなどの点と点が結びつき、当時の政治や社会のあり方を連想させる。

 古墳は被葬者の姿が具体性を帯びると、途端に生き生きと蘇ってくる感がある。その地を統治した首長、それを慕う人々が敬愛するリーダーのために築造した古墳。

 想像に過ぎないけれど、古代、この地に確かに人の営みがあり、現代へと続いているのだと思いながら、墳丘に立つと、なんとも言えない感動が寄せてくる。

 実におおらかで気持ちの良いこの古墳は、古墳と遺跡がダイナミックにつながる、その真ん中にあって、存在感が光る。

【畿内へと繋がる2基の古墳〜谷地久保古墳と野地久保古墳〜】

 古墳と遺跡がダイナミックにつながりを、さらに、ダイナミックに広げる古墳2基を訪ねた。

看板を見るだけでもワクワクしてくる。

 阿武隈川の左岸、標高350mほどの山の南向きの斜面に位置する「谷地久保(やちくぼ)古墳」は、幹線道路から山に向かって、なだらかな坂道を歩いていくとたどり着く。

 のんびりとした山の斜面に、なかなか立派な石を組み合わせた石室がどんと現れる。墳丘は大きく削平されているけれど、二段築成で築かれた直径17mの円墳だという。

 昭和58年(1983)に関西大学考古学研究室が測量調査を実施していて、「畿内地方に見られる切石を用いた古墳と同じ構造を持つ古墳」という知見が得られたそうだ。主体部は横口式石槨の埋葬施設で、付近で産する白河石(安山岩質溶結凝灰岩・あんざんがんしつようけつぎょうかいがん)を加工したもの用いて、底石の上に奥石と左右の側石を立てて、その上に天井石を架けるように載せる。加工された石の表面は滑らかで、畿内の終末期古墳によく見られる切石積みの石槨であることがわかった。

 三方が丘陵に囲まれた南に向いた緩やかな斜面での築造、また墳丘を守るように背面には弧を描く崖があったという。築造場所の選定や、石室の構造などは、畿内の影響を色濃く受けていて、また、7世紀後半~8世紀初頭ごろという築造時期なども考え合わせると、被葬者は畿内とのパイプを持つ有力者=古代白河郡の郡司などの役職にあった人物ではないかと考えられている。

谷地久保古墳石槨の開口部。滑らかな加工の跡が見て取れる。


発掘当時の写真。前庭部もあったようで、白い礫が見える。

 この谷地久保古墳の南東450mのあたりの丘陵の先端部に「野地久保(のじくぼ)古墳」がある。山の中の古墳を訪ねてみると、古墳の高まりはほとんど分からず、杉の木がボンボンと生えまくり、杉林、というか、山林の一角にしか見えない。

 市教育委員会の調査によると、葺石をもつ上円下方墳であることがわかった。「ここは古墳?どのあたりが上円下方墳?」と思わず自問してしまう。

いや、ほんと、杉林にしか見えないんですが…。

 下方部の一辺16m、上円部は直径10mという規模で、谷地久保古墳と同じように横口式石槨で、石室には加工した白河石の切石を用いているという。

 今は古墳の面影はほとんど見られないが、この古墳は白河の歴史を考える上で、大変、重要だそうだ。谷地久保古墳とさして遠くない位置にあって、築造時期も近いという。さらに畿内の性格を持つ横口式石槨を有することから、この古墳の被葬者も白河地域の盟主、重要な位置にいた人物と予想できる。もしかすると古代有力者の墓域が、ここに展開していたのかもしれない。この地の発展には、物資の流通に欠かせない阿武隈川という川の存在も無視できない。河川の流通や交通を抑えていた有力な豪族がいく筋かに分かれて、地域を治めていたのだろう。

 国造を配置し、全国に律令制が進んでいく時代に築造された前方後円墳、円墳、上円下方墳という個性的な3基の古墳。その繋がりは、国造と地元有力者との関係を知る手掛かりになるはずだ。

上円下方墳というのも非常に面白い。なぜ、この形を採用したのだろうか?

 

 下総塚古墳、谷地久保古墳、野地久保古墳の3基の存在は非常に興味深いですね。まず谷地久保古墳は、山の斜面を利用して、山寄せの地形を造成して南向き、しかも切石細工を用いて、横口式石槨を備えている。それも近畿中部の、奈良の飛鳥であったり、大阪の磯長谷などの地域で見られる終末期古墳の特色と共通性が高い。本当に面白いですね。このまま奈良や大阪に持ってきても決して遜色しない終末期古墳です。典型的といっても良い終末期古墳が遠く離れた白河の地域に展開している。それにはすごく意味があると思います。さらに、南北の方位を意識した古墳には、風水のような発想があったのかもしれないし、とにかく畿内に展開していた造墓思想=墓を造る思想が極めて厳格に共有されていると思います。被葬者像も、飛鳥の都と直結するような政治的・文化的・社会的位置にあった人ではなかったかと想像します。(今尾先生談)

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郡 麻江(こおり まえ)

こおり まえ

ライター、添乗員

古墳を愛するライター、時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)を、翌2019年、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)を取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、世界遺産や古代遺産を中心にツアーを企画催行する株式会社国際交流サービスにて、古墳オタクとして古墳や古代遺跡を巡るツアーなどの添乗の仕事もスタートしている。

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