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大坂夏の陣・道明寺口と誉田の戦いをめぐる①仲哀天皇陵

季節と時節でつづる戦国おりおり第359回

■最新大坂城研究をのぞき見

 大阪府は藤井寺市、近鉄電車の南大阪線藤井寺駅から南へ徒歩1km、仲哀天皇恵我長野西陵(岡ミサンザイ古墳)です。

 

  大きいですねー、最大の古墳・伝仁徳陵が墳丘の長さ南北525なのに対しこちらは245mだそうですから半分以下なのですが、数値よりも目視での感覚はもっと巨大です。

 次の写真は、この古墳を東南角から眺めたところ。

 
 

 前方部分の衝角のところです。
 この反対の衝角部分(南西角)について、少し前城郭考古学のS先生がテレビで「角の付け根部分に堀切がほどこされていて、角部分が独立した馬出になっている!これは真田信繁(幸村)の馬出で、誉田の戦いで信繁はこの古墳を拠点として兵を出し入れし、幕府軍と戦ったのだ!」
 と「新発見」を強調しておられましたが、先生の言う「堀切」はただの雨水の侵食によるものだと思います(笑)。なにしろ、武田流の「馬出」は大手に造られるのが基本なのですから。敵に背を向けた側に馬出を造っても、その本来の機能は発揮できません。
 仮に堀切が人為的なものだったとしても、それは前時代、三好氏が畿内での争いの際に古墳を城砦として活用したときのものでしょう。

 ただし、この仲哀天皇陵は大坂夏の陣の誉田の戦いで重要な役割を期待されていたという点では筆者もS先生に同意です。
それは、ここが誉田から一歩ひいた第2防衛ラインと考えられていたと思われる点です。
 信繁は応神天皇陵(誉田丸山古墳)を城砦として誉田の東の石川の河岸段丘と堤で幕府軍を迎撃し、その後は西に2km弱退いた仲哀天皇陵を拠点として幕府軍に出血を強いる作戦を考えていたとみて良いでしょう。
 それでも幕府軍が大坂城方面に北上するなら、今度は北の八尾に展開している長宗我部隊と呼応して幕府軍を前と横から攻撃する構えです。これは理に適っているのではないでしょうか。

 ところが、若江で木村重成が敗れ、八尾の長宗我部隊も孤立を恐れて退却してしまったために、信繁のもくろみは外れました。実際に戦闘に巻き込まれることはなかった仲哀天皇陵。今日も静かに藤井寺でまどろんでいるようです。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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