「不倫をした人/してしまう人」を断罪しても仕方がないと私が思う理由【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第4回
そもそも現代において、夫婦関係が冷めてしまったり、新しい相手に欲望を持ってしまったりする問題を、夫婦だけで解決しようとすること自体に無理があるのだと思う。かつて夫婦は社会に対してある程度公的な存在であった。だから結婚は社会への宣言という性格を持ち、結婚式には友人だけでなく親族や会社の人々も呼ばれたのである。
しかし時代は変わった。たしかに、会社の上司や親族一同を集めて結婚式を挙行することは、手間もかかるしわずらわしい。今はカップル同士とわずかな友人を集めての簡素な結婚式も増えた。さらには、そもそも籍を入れるだけの夫婦もすっかり当たり前になったし、籍もかたちだけのものに過ぎないとして、とくに気にしないパートナー関係も日常的に目にするようになった。
こうして今や夫婦は夫婦「だけ」の関係、親族とも会社の上司とも無関係な、とてもクローズドな関係になっている。当人同士が自分たちだけの自由意志によって一緒に暮らすのである。夫婦以外の他人がその関係に対して、おいそれと口出しできるものではない。あえてそんなことをすれば、一つ間違えれば余計なお世話どころかハラスメントである。他人の愛情関係はそっとしておくことが基本であり、仮に相談を受けたとしても「まあそんなこともあるよね」と、無難に済ませて話題を変えるのがせいぜいのところだろう。今や夫婦とは他人たちから見て、どこまでもプライベートな関係だからである。
だが上述のとおり、どのような形式であれ、結婚式には公的な性格があったはずである。
なぜ、かつてはめんどうくさくても親族一同や職場の同僚が集まっていたのか。それは、そうした関係者のなかにも世話好きな人々が多かったからである。これら世話好きな人々が結婚式の準備を手伝い、あるいは祝儀を出したりして、これから結婚する者たちとの信頼関係を培った。そして新郎新婦が夫婦喧嘩などで行き詰まった際には、夫婦はこれらの人々のなかの誰かには泣きつくことができたのである。彼ら彼女らが喧嘩の仲裁をしてくれたりと、なにかと世話を焼いてくれたのだ。
そして、他の宗教の場合もおそらくそういう性格はあると思うが、教会での結婚式の場合、牧師や神父は新郎新婦の結婚前後の相談役も務める。夫婦だけの閉じた関係では解決できない困難に、親族よりさらに利害関係のない宗教者が寄り添うのである。上述のような人づきあいが希薄になり、ことさら夫婦関係の問題は親しい友人にさえ相談しにくい今、宗教者が裏方としてカップルを支えるニーズも増している。わたしも幾組かのカップルの相談を受けてきたし、今も受けている。
彼ら彼女らが無事付きあい続けるか、それとも別れるのか。最終的な結果はすべて神にお任せしつつ、わたしは無理のない範囲で、若い人々と向きあっている。
文:沼田和也