コロナ禍の倒産・廃業・リストラにあえぐ人たちへかける「言葉」はあるか【沼田和也】
聖書の中の絶望的な言葉が希望の言葉より深い慰めになる時
コロナ禍にあって、自営業の経営者たちは断腸の想いに迫られていると思われる。それまで和気あいあいと仕事をしてきた。しかし経営縮小を、場合によっては廃業を余儀なくされている。事業を存続させるにしても、いや、させるためにこそ、このメンバーのうちの誰かに、自主退職を志願してもらわねばならない。志願者がいない場合、経営者が選ばなければならない。ベテランを残すのか。未来ある新人を残すのか。どんな基準を設けるにせよ、その基準を満たさない誰かを、はじかなければならないのだ。和気あいあいと働いていた人は、あるいは事情を呑み込んでくれるかもしれない。「社長もたいへんですね」と辞めてくれるかもしれない。だが、あれほど慕ってくれていた経営者を睨みつけながら、あるいは絶望に俯きながら、その人は会社を去っていくかもしれない。
10年ほど前、わたしは牧師として赴任する任地のない、無任所教師と呼ばれる立場にあった。要するに無職である。借家の家賃でどんどん貯金が消えていく。真夏なのにエアコンもつけず(つけられず)、病身の妻とわたしは共に床に横たわり、このまま熱中症で死んでしまうのだろうかと不安のなかにあった。任地が与えられたときにすぐ動けるよう、辞めにくいアルバイトを控えていたのだが、そうも言ってはいられなくなり、わたしは郵便局で配達のアルバイトを始めた。
神学生だった20年以上昔にも別の郵便局で働いたことがあったので、それほど不安はなかった。だが郵政民営化とAmazonの時代を経た郵便局は、過酷きわまりない職場と化していた。時間指定の配達物が膨大にあり、コース通りに配達することなど不可能だった。時間指定に1分でも遅れれば、客は猛然と怒った。「局長を呼べ!お前をクビにさせる!」怒鳴り散らす客を前に、わたしは郵便局に電話する。すると「あほか!お前がなんとかしろ」と電話は切られる。そしてわたしは屈辱に震えながら、客の前に土下座して謝るのである。
そんなある日わたしは電車の駅で、中年の女性にぶつかられた。ぶつかられたといっても、なんでもない程度のことである。だがわたしは猛然と怒り、「死ね!ばかやろう!」と、その女性に大声をあげた。そばに妻がいなかったら、わたしは警察沙汰を起こしていたかもしれない。怒りが冷めてみると、あまりにも自分が情けなく悲しかった。毎日上司から怒鳴られ、客からは罵られ、自分を無能だと思い、そのやりばのないはけ口を、キレてもやり返されなさそうな、自分より立場の弱そうな相手に暴力として向ける。どんな言い訳も赦されない行為であった。わたしは想いだしていた。わたしにクビにされ、わたしを憎んだ幼稚園の職員やその家族のことを。わたしは自分の任地が見つからない、自分を必要としていないキリスト教世界を憎んでいた。