コロナ禍の倒産・廃業・リストラにあえぐ人たちへかける「言葉」はあるか【沼田和也】
聖書の中の絶望的な言葉が希望の言葉より深い慰めになる時
わたしはこういうやりきれない記憶を、今、コロナで苦しんでいる人々に投影してしまうのである。聖書のなかにある、きわめてネガティヴな言葉に、当時わたしは慰めを見いだしていた。
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。 人間の屑、民の恥。 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。 『主に頼んで救ってもらうがよい。 主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。』」 詩編 22:7~9 新共同訳
詩編は一つひとつの詩が成立した背景が不明であることが多い。だからかえって自分の状況に重ねやすい。自分などクズだ。虫以下じゃないか。なんの尊厳もありゃしない。そういうきわめてネガティヴな言葉を、わたしに代わって数千年昔の誰かが、すでにツイートしてくれていたのだ。大昔の誰かが、わたしの肩をポンと叩く。「あんたもか。わたしもだよ」。こういうとき、どんな前向きな言葉よりも、絶望的な聖書の言葉が、わたしを慰めるのである。数年前に『JOKER』というあまりにも絶望的な映画が流行した。絶望的だからこそ、希望よりも深い慰めが与えられるのだろう。
コロナ禍にあって、わたしは宗教者として希望を語るべきなのかもしれない。おそらくそれが牧師としての本分なのだろう。だが、語れない。語ることができないのである。あのお蕎麦屋さんの活気あふれる店員さんたちは、どこへ行った。あの人たちの笑顔は、元気は、どこへ行った。
文:沼田和也(小さな教会の牧師)