日本マクドナルド創業者「藤田田の最後の愛弟子」友成勇樹が藤田田と『ユダヤの商法』の魅力を語る!
稀代のイノベーターであり、大経営者であった日本マクドナルドの創業者・藤田田の「遺志」はどのように若い世代に受け継がれているのか。
1972年の大ベストセラー『ユダヤの商法』50周年の本年、若い世代に向けた漫画版を記念し、「藤田田最後の愛弟子」で4月にカフェ業界5位に躍進するC-United社長の友成勇樹氏に藤田田氏と『ユダヤの商法』の魅力を語ってもらった。(インタビュー/外食ジャーナリスト・中村芳平)
◆藤田田からの学びを活かす「いつか、日本一の給料を出せる会社に育てたい!」
C-United社長の友成勇樹は日本プレタ・マンジェ時代、藤田田からよく聞かされたという。
「ビジネスは勝てば官軍だ。この資本主義社会の中で負ければ撤退だ。そうなれば誰も幸せになれない。やはり勝ってみんなが幸せになれることが大切だ」
友成は藤田田の最後の愛弟子としてC-Unitedが「いつか日本一の給料を出せるような高収益体質の企業に育てたい」という夢を持っている。
Q——友成さんは6歳から母親の飲食店を手伝い、中大夜間部2年生の1984年、新宿2丁目の最上階ビジネスホテルのビルで洋風居酒屋を経営、失敗して信用金庫に2000万円の借金を抱え、15年ローンで払うというハンデを抱えました。86年日本マクドナルドが大量採用に踏み切った年に入社試験を受けて合格、同期276名のトップを走り、たったの3年2ヵ月で店長になったとのことですが…。
友成――はい。母親が経営する飲食店を6歳から手伝いました。日本マクドナルドに入社した時は水商売歴16年、水商売のプロを自負していました。何より2000万円の借金(15年ローン)を抱え、毎月約13万円を返済しなければならなかったので、同期とは全く背負っていたものが違っていました。マクドナルドの場合、店長にならないと給料が高くなりません。少しでも早く店長になって生活を楽にしたいと寝る間も惜しんで働き、実績をあげました。
当時、店長になるのには平均10年ぐらいかかると言われていたのですが、私は3年2ヵ月25歳の時になりました。店長になるのにはハンバーガー大学の教育研修でファースト・アシスタントマネージャー(店長代理)に合格しなければならないのですが、この教育研修でもトップで合格しました。その時、藤田田さんから「勝てば官軍」と書いた署名入りの色紙をもらいました。いい記念になるので大切に取って置いたのですが、家庭も顧みずに仕事ばかりしていたせいか、妻は怒って色紙を捨ててしまいました(笑)。
藤田田さんは雲の上の人でした。私は年齢的には37歳年下で孫的な世代でした。腹心で社長を務められた八木康行さんが25歳年下で子供世代だったでしょうか。私は店長時代、1977年に開店したドライブスルー方式の杉並区「環八高井戸店」の店長を務めたことがあります。藤田田さんはよく来店されました。
Q――1997年から2000年までの4年間(34~38歳)、米国イリノイ州に赴任されますね。その時代にKELLER(ケラー)経営大学院に3年余通われて、MBA(経営学修士)を取得されますが、MBA取得は日本マクドナルドでは初めてのことだったということですね。99年から2000年までの2年間、米国マクドナルド本社国際部に出向、世界125か国に展開するマクドナルドから集まって来るスーパーバイザーから部長までの中間管理職スタッフのプロフェッサーを務められ、研修プログラム開発の責任者も務められた。藤田田さんが年に2,3回、米国マクドナルドを訪ねて来るときは、友成さんはたまにカバン持ちを務められたようですね。
友成――ええ。これは『ユダヤの商法』(「(42)父親は他人の始まり」)にも書いてありますが、藤田田さんはシカゴ市に来られる時、ユダヤ人のディビット・シャピロ―さんに電話して迎えに来てもらっていました。高級靴のメーカーの社長で1967年(昭和42年)からの古い付き合いで、シカゴ市に来るとよく宿泊していたようです。シャピロ―さんと私は、飛行機の直ぐそばまで行って藤田田さんを迎えに行きました。シャピロ―さんは自分で運転してきたキャデラックの助手席に藤田田さんを乗せて、自宅に連れていかれたようです。
Q――藤田田さんはホテルではなく、シャピロ―さんのようにユダヤ人の有力者のところに宿泊していたようですね。藤田田さんは、『ユダヤの商法』を書いているので、ユダヤ人を心から尊敬し信頼しているのかと思えばそうではなく、「ユダヤ人を100%信用してはいけない」と、警告を発することもあったようですね。商売に関してはユダヤ人よりユダヤ人らしい気概を持っていたのではないでしょうか。
◆数字に厳しく、机上の空論を言わない藤田田
友成――藤田田さんのことで一番魅かれるのは、机上の空論は言わないところでした。それは売上高2000億円、全国3000店舗展開と夢といえるようなことは言いましたが、その方向に向かって努力していればいずれ目標が見えてきました。綺麗ごとではなく計算の裏付けがあったから、進軍ラッパを吹いたのだと思います。藤田田さんは『ユダヤの商法』や『天下取りの商法』『勝てば官軍』など様々な著書があり、著書に書いてあるようなことをよく話されていました。
たとえば『ユダヤの商法』の「(1)78対22の法則」では借り上げマンションの社宅費は毎月給料の2・2%払うこと、という決まりがありました。一方、社宅を出て自分でマンションを買ったり、一軒家を購入した場合は毎月の給料の7・8%を会社が負担するという決まりでした。これだとマンションや一軒家を購入したほうが得なので、そのために貯金に努めて社宅から早く出て行こうと意欲を燃やすことになります。
机上の空論を嫌う藤田田さんは、数字に非常に厳しかった。藤田さんが使っていた社長室、会長室、すべての会議室には入り口から奥まで5メートル、間口3メートルとか数字が入っていました。こうしておくとマクドナルドの店舗に行っても5メートル、3メートルはどのくらいかということが勘でわかるようになります。空き地を見たり、店舗に入ったりした時、勘で空間の広さがわかるようになります。店舗開発する時など、こういう勘が働けば仕事は早く進みますからね。
マクドナルドの仕事は厳しかったですが藤田田さんは人使いが上手でした。社員の誕生日は公休日にしたり、奥さんの誕生日には花を送ったり、また夏冬のボーナスのほかに3月に決算ボーナスを出しました。これは奥様ボーナスと呼ばれ、奥さんの口座に直接振り込みます。その後、藤田田さんが奥さん宛てに「マクドナルドが繁盛しているのは奥さんのおかげ。奥様ボーナスを振り込んだ」といった感謝の手紙を送るので“不正”はできません。けれども、奥さん名義の口座を作ってそこに振り込んでもらい、あとは奥さんに言い訳をするといった手を考える社員もいましたね。(笑)。独身の社員には直接振り込んでいました。
Q――ところで日本プレタ・マンジェを設立に取り組み始めた2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起こりましたね。
友成――あのときはプレタ・マンジェのことで米国本部で会議に参加する用事があったのですが、藤田田さんは「安全が担保されないのなら行かせることはできない」と米国側に対し突っぱねてしまいました。一介の社員のことなのに藤田田さんは米国本部の命令に一歩も引きません。ああいうところに藤田田さんの人間的な魅力を感じますね。私が最終的に米国本部に報告に行ったのは、翌02年の初春のことでした。
Q――02年6月、日本プレタ・マンジェ設立、友成さんが社長、藤田田さんが会長となって、二人三脚でスタートします。日本マクドナルドの場合は、米国本部が「マクダーナルズ」を主張するのに対し、藤田田さんは「それでは日本人に受けない。3音で切れる“マクド/ナルドにすべきだ」と強硬に主張し、それを米国本部に飲ませました。また、メニューなどは「マクドナルド・ハンバーガー」と表記させました。日本プレタ・マンジェの時はどんな状況だったのですか。
友成――日本プレタ・マンジェは英国本部50%対日本マクドナルド50%の折半企業でしたが、英国本部に優位性のある契約でした。「PRET A MANGER」(プレタ・マンジェ)はフランス語で「食事の用意が出来ました」という様な意味です。店名にもPRET A MANGERのロゴを採用していました。これはジュリアン・メトカフとシンクレア・ビーチャムの2人の創業者が大切にしていました。
藤田田さんは「プレタ・マンジェ」と片仮名で書き、「プレタ・マンジェ・サンドイッチ」と、日本マクドナルドの時と同じようにすべきだと言って譲りません。私は英国のプレタ・マンジェ社を訪れ、契約書を作成した張本人です。「3年間で80店舗展開」というように英国本部からの縛りも強く、「PRET A MANGER」のロゴをそのまま使うべきだと主張し、一歩も譲りませんでした。最後は藤田田さんが会長席の机をたたいて、「好きにせいや!」と怒鳴りまくる始末でした。側近の八木康行社長や本部長は心配されましたが、私は藤田田会長が「許可してくれた」と基本方針を貫きました。
けれども今から考えれば藤田田さんのおっしゃっていたことのほうが正しかったかなと思いますね。店名のロゴだけでなく、たとえば人気メニューの「クレイフィッシュ&ルッコラ」にしてもネーミングが長いのが多く、お客様に特徴が伝わりにくかったかもしれません。ただし、あの頃藤田田さんは膵臓がんで4カ月も入院し、大手術をされました。ご指導をいただけるような状態ではなかったのが残念です。
今回、改めて『ユダヤの商法』『勝てば官軍』の新装版を読み直しましたが、あの頃藤田田さんがおっしゃっていたことが走馬灯のように甦って来ましたね。
Q――藤田田さんは「文化は高き所から低き所に水のように流れる」と言い、日本より文化の高い米国からハンバーガーを導入、その第1号店を日本の文化の高い銀座三越店にオープン、水の流れるように全国に展開し、見事に成功させました。
友成――はい。そういえば藤田田さんは「文化の差が儲けを産む」とおっしゃっていましたね。ハンバーガーは米国の食文化として国民の間に根付いています。この食文化をそのまま導入するのではなく、アレンジしたり、アイディアや創造力を加えて、日本発の新しい食文化を提案します。そうすることで「米国発のハンバーガーに日本発のイノベーションが加わり、食文化の差が産まれて、その食文化の差が儲けにつながる」というのです。
プレタ・マンジェにしてもサンドイッチは英国の食文化として国民の間に根付いています。だからそこに店舗名のロゴを片仮名にしたり、メニューに日本発の新しい創造力を加えて食文化の差を産み出すことが必要だったのだと思います。当時の私にはそれを実現できる能力はなかったのですが、今ならプレタ・マンジェのサンドイッチはタンパク質(Protein)、炭水化物(Carbohydrate)、脂質(Fat)、つまりPCFバランスに優れ健康的な食べ物だといったアピールの仕方をしたかもしれません。アピールの仕方が弱かったのは確かです。
Q――経営の多角化を推進していた米国マクドナルドは03年には業績悪化もあって、チキンのボストンマーケット、アロマカフェ、ドナトスピザ、そしてプレタ・マンジェ事業からの撤退を発表した。その結果、日本のプレタ・マンジェもスタートして1年8カ月、03年11月に撤退を余儀なくされました。
友成――ええ、もう1、2年続けてくれればもっと違った展開になったと思いますが、残念です。藤田田さんは『ユダヤの商法』に続き『続ユダヤの商法』というべき『頭の悪い奴は損をする』、それに『天下取りの商法』の3部作に「金儲けのノウハウがぎっしりとつまっている」と書いています。今読み返しても新鮮で、新しい発見や刺激がつまっていると思います。
とにかく藤田田さんは1950年(昭和25年)に藤田商店を設立して以来、1日も休まずに仕事に打ち込んできた人でした。「一気呵成」という言葉が好きで、年間500店舗出店した時もありました。ただ、休みを取らずに働くマクドナルド純血主義、カリスマ性の強い藤田田イズムが経営幹部、中間管理職、社員の間に浸透していて、後継社長に就いた八木康行さんは経営のかじ取りに大変な苦労をされたと思います。
藤田田の前に藤田田無く、藤田田の後に藤田田無しというべきか、そこに藤田田マクドナルドの弱さもあったと思います。
◆藤田田最後の愛弟子、友成勇樹の経歴
1963年7月5日、東京都文京区生まれ。飲食店を経営する母親の下で6歳から水商売を経験した。私立・中央大学杉並高校から82年、中央大学夜間部に進学。大学2年生の時、起業ブームに乗って新宿2丁目に洋風カフェ・酒場を開店した。開店費用は信用金庫から2000万円を借りた。しかし店はうまくいかず、大学4年生の時年閉店した。借金が2000万円残った。15年間のローンで毎月10数万円返却しなければならない。就職先に選んだのが当時、創業者の藤田田が「日本一の給料を出す」と豪語していた日本マクドナルドだ。
1986年には大卒の大量採用に踏み切った。友成はこの時入社試験を受けて合格した。同期は276名であった。友成は給料を上げるようとガムシャラに働き、当時で平均10年かかると言われた店長に、たったの3年2 ヵ月25歳で昇進した。それから5年後30歳でSV(スーパーバイザー)に昇格。97年初春34歳で日本マクドナルド米国法人(イリノイ州)のバイスプレジデントに就任、日中はフルタイムで働く一方、夜間は経営大学院に3年余通いMBA(経営学修士)取得。99年に米国マクドナルド本部国際部に出向、ハンバーガー大学のプロフェッサーとして2年間組織管理論などを教えた。
2001年初春に帰国、同年7月日本マクドナルドが東証JASDQに上場、事業開発部でM&A(合併・買収)を担当した。最大の案件が英国手作りサンドイッチチェーンのプレタ・マンジェとの合弁企業「日本プレタ・マンジェ」の設立であった。米国マクドナルドは経営多角化の一貫で英国プレタ・マンジェに出資、日本マクドナルドにも合弁事業を行なうように薦めた。01年冬頃にはプレタ・マンジェのアンドリュー・ロルフCEOは、藤田田と面談して意気投合、日本でもプレタ・マンジェを出店することで合意した。
友成は藤田田直属の部下として渡英、プレタ・マンジェ幹部と交渉し細部にわたる契約をまとめた。その結果、2002年6月、5階級特進で日本プレタ・マンジェ社長に抜擢された。会長は藤田田である。藤田田は当時76歳、膵臓がんを患っており、友成と一緒に店回りしたのは最初だけである。友成は「藤田田会長に本当に仕えたのは事業開発部時代からの晩年の2年間だけでした」という。ちなみに藤田田は日本プレタ・マンジェがスタートして間もなく、手術のために入院、退院後も体調は優れず、03年3月には会長兼CEOを退任した。八木康行社長を伴った記者会見で、「桜の花のように静かに散りたい」と発言した。それから療養生活に入り、04年4月21日に死去した。享年78。
友成は02年9月、日比谷シティにプレタ・マンジェ1号店をオープンした。合成の添加物を使わず有機野菜たっぷりの「ヘルシー、ナチュラル、フレッシュ」を売りにするサンドイッチだ。店内調理であるが、あらかじめ作ったサンドイッチを冷蔵ショーケースに並べて販売するコールドサンドイッチだ。藤田田は「大きなサンドイッチを2つペロリと食べた」(友成)という。友成もザリガニサンドイッチなどが好きだったというが、客単価800円と高く、当時の日本人の嗜好には合わなかったようだ。3年間に80店舗出店という約束で出店を急ぎ、約一年半で13店舗展開したが、多くは赤字続き。米国マクドナルドがプレタ・マンジェ事業からの撤退を決めると、日本マクドナルドも03年11月、プレタ・マンジェ事業からの撤退を決めた。
友成はこれを機に日本マクドナルドを辞めて独立した。新たなスポンサー探しに奔走、現、株式会社ロッテホールディングスの重光昭夫代表取締役会長の協力を得てナチュラルビートを設立、日本プレタ・マンジェ事業資産の一部を継承した。友成は飲食関連会社の立ち上げやプロジュースなどを行ない、09年レタス&カンパニー社長に就任。10年4月にはモスフードサービスグループのモスダイニング代表取締役会長に就任した。一方、ナチュラルビート事業は安定せず、2008年9月の友成の退任後、10年5月に会社は解散、同年6月清算された。
友成はモスフードサービスでは「マクドナルドへの恩義があるので、本業のハンバーガー事業ではなく、新規事業を担当させてもらった」という。モスフードサービスにはほぼ8年余勤務した。18年7月、その友成をスカウトしたのが東京・香港を拠点に投資活動を続けるロングリーチグループだ。日本のファストフード業界やカフェ業界の実情に明るい。
ロングリーチグループは18年に老舗カフェチェーン「珈琲館」を買収した。その社長候補を求めて友成と接触した。とどのつまり友成が同グループ傘下に入り、18年7月、社長に就任した。
当時、珈琲館は創業48周年、国内で240店舗(FC153店舗)展開するフルサービスの老舗カフェチェーンだ。
ロングリーチグループは20年1月、セルフサービス型カフェの「ベローチェ」(運営シャノアール)を買収した。そして「珈琲館」と「ベローチェは21年4月1日に合併、新会社「C-United」を設立した。新会社は全国に6ブランド、約400店舗の規模に拡大した。
C-Unitedは、22年4月、サッポログループ食品株式会社傘下の「カフェ・ド・クリエ」を運営するポッカクリエイト社をグループ傘下に加える予定だ。これによってC-Unitedは22年4月1日から全12ブランド、600店舗を展開するカフェ業界5位のグループに躍進する。
カフェ業界は①スターバックスコーヒー、②ドトールコーヒーショップ、③コメダ珈琲、④タリーズコーヒー、➅サンマルクカフェ、⑦プロントというように群雄割拠の業界で、コロナ禍を引き金に淘汰再編が進むと見られている。C-Unitedはカフェ業界再編の台風の目になってきた。