第47回:「旅行一週間前」(前編)
<第47回>
8月×日
【「旅行一週間前」(前編)】
一週間後に、海外旅行が控えている。
「一週間後に、海外旅行が控えている」と一行目にして書くなんて、実に鼻につく所業だということはわかっている。「一週間後に、海外旅行が控えている」と一行目に書いていいのはこの世で辻仁成だけだ。
しかし、わかってほしい。華やかな世界に生きているわけではない僕にとって、なんか白いダニとかムカデとかと同じ世界に生きている僕にとって、つまり腐った木の皮をめくった先にあるような世界に生きている僕にとって、海外旅行なんて滅多にあることではない。そして、一行目にして海外旅行について触れたのは、決して自慢したいからとかではなく、現在抱えている憂鬱さをわかってほしいからだ。
「パスポート期限」「トラベラーズチェック」「パッキング方法」「海外旅行保険」「現地の電圧」。
グーグルの検索履歴に、これらのワードが並ぶ。
気重に検索を続け、鉛のようなため息を吐いている自分がいる。
旅行準備のために、下調べをしなくてはならない。しなくてはならないのはわかっているのだが、心が錨をおろしたように沈んでおり、作業は遅々として進まない。
人はなぜ、旅行を目前にすると、ひどくブルーになるのだろう。
人はなぜ、旅行を目前にすると、なにもかもがめんどくさくなるのだろう。
「旅行記」で検索して、色んな人々の旅行ブログを覗いてほしい。大概、旅行に旅立つ一週間前くらいから更新が止まっている。
「楽しく荷造りしてます!」みたいなエントリーをアップしている人は、ごく少数である。
僕は、旅が好きな人間である。なんなら、いつも旅のことを考えてワクワクしているタイプの人間である。
「さあ、次の休みには、旅に出るぞ!」
そうなった瞬間のテンションの高さたるや、凄まじい。
「どこだ!?どこに旅行に行くんだ?!」
血走った目で書店の「地球の歩き方」棚に突入し、なにを食べても美味しく感じ、どんな音でも立体的に聞こえ、ちょっとしたことが可笑しくて笑いが止まらない。
そんな、非合法なテンションになる。旅=トリップとは、よく言ったものである。
ところが。
いざ数日後に出発を控えるとなると、急にバッドトリップ状態になる。
荷造りをする手は震え、予約確認書を濁った目でファイリングし、現地にいくら持っていくかを勘定しているうちに「¥¥¥$¥$バーツ¥ルピー$$リンギット…」などと廃人色の独り言を漏らしている自分がいる。
急にヒューズがとんで、「もう旅行なんていがね!」となぜか東北訛りで叫び、窓の外にバックパックを投げ出したくなる。
病気である。
事実、旅行の前日には爪噛みが止まらなくなり、全ての爪が「バランか」みたいなギザギザ調になる。
やはり、病気である。
この症状は、飛行機に乗った瞬間に、嘘のようにすっと収まる。
あれだけ倦怠感を感じていたのに、不思議なもので旅立ってしまえば「ああ、やっぱり旅は最高だなあ」となる。
あの旅行前の「めんどくささの沼」から逃れられた喜びを、身体全身で感じる。異国に到着すると再び興奮状態が訪れ、「なんかトイレに妙に脚の長い蜘蛛がいる!」「わあ!この食べ物、甘くてしょっぱくて辛い!」「きゃあ!舗装されていない道がある!簡単な言葉でいうと、砂利道!」などと、どうでもいいことでいちいち歓喜の声をあげる。
そして帰国後、また快感を感じたくて、旅行会社に足を運んでいる自分がいる。
バッドトリップにはまると分かっているにも関わらず、身体は旅に手を伸ばしている。
中毒のスパイラルとは、実に恐ろしい。
だが、旅行前にぐずぐずするくらいの症状なら、まだマシなほうだ。
僕は知っている。この「旅行直前はダウナー」「いざ旅行に行っちゃえばアッパー」のスパイラルにはまりすぎて、最後は自身を崩壊させた男がいることを。
(次回へ続く)
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