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「我々」在日コリアン3世のこれから

現在観測 第5回

世の中のさまざまな分野の「今」を論じる、リレー連載「現在観測」の第5回目。
今回は「在日コリアン」について、在日コリアン3世である、編集者・評論家の林晟一さんにご寄稿いただきました。

   初めて民族なるものをまじめに意識したのは、高校生のとき、The Yellow Monkeyの「JAM」(1999年)を聴いてからだった。「乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした」と吉井さんが連呼する、あの曲である。

 はて、在日3世の僕がどこか異国の地で人質にとられる、殺されるなどした場合、日本のメディアは報道してくれるだろうか? 微妙なところ。では、民族的なルーツのある北朝鮮や韓国のメディアは? これも怪しい。半島に根づいた人間でもないし、向こうに知り合いもいない……。

 いつだってもやっとした後ろめたい想いを引きずりながら、それでもそれなりの解放感を求めていろいろな国へおもむき、この国に「再入国」を許可していただき、帰ってくる。こうした旅行の光景は、我々在日にとってごくありふれている。

だとすれば、いったい我々とは何者なのだろうか。

 日本は、1945年の敗戦まで、朝鮮半島を植民地としてきた。在日コリアン(以下、慣例に甘えて「在日」と記す)は、その半島の民族をルーツに持つ。

 植民地期、半島では日本人が主役だったし、彼らに土地を奪われる朝鮮人が続出した。職にあぶれ食うに困った朝鮮人の一部は、日本へ渡った。下等な「鮮人」としてこき使われ、虐げられ、命を落とすことも多かった。

 敗戦後の新生・平和主義国家ニッポンにおいて、在日は目に見える「負の遺産」となった。「あの時代」を思い出させる存在、日本がかつて植民地とした国の者……。「不逞鮮人」という、字面からしてすでに穏やかならぬ差別語もよく使われた。

 半島に帰ってくれ。戦後の政府や国民の多くはそう思った。いっておくが、在日はモノでもカネでもない。土地に根を張りその日を暮らす、心の機微に富んだヒトである。「はい、そうですか」、と簡単に帰れる人ばかりでなかったのは当たり前である。

 日本国政府は、元「(植民地の)臣民」にして今や「異物」である在日にきわめて冷淡だった。多くの日本人の協力を得ながら、1世・2世らは長らく差別是正や権利獲得(というより奪われた権利の回復)に力を注いできた。

 僕は1981年に生まれた。その頃までに、在日への差別的措置はだいぶ改善されていた。成長した僕は、小学校から高校まで日本の公立校に通ったが、差別はほとんど受けないですんだ。

 だけど、別の差別を受けた。朝鮮民族のプライドみなぎる親族からの、暑苦しい差別である。「なぜ民族学校に行かないのか」「なぜウリマル(朝鮮語)をしゃべれないのか」、そしてもっとも頻繁に浴びせられた非難、「おまえには民族意識が本当にあるのか!」

 1世・2世は、民族意識を胸に運動をくり広げてきた。朝鮮半島のどちらかの国と自己を重ねあわせたい気持ちは理解できる。それくらいしなければ、世知がらい日本社会を生きぬくことはできなかったと思う。

 だけど3世・4世となると、日本社会に根づきつつも、ひっそり生きている人は多い。さまざまな事情から、本名とは別の「通称名」を用いる者もある。朝鮮系・韓国系の民族学校には通わず、日本の学校に通う在日だってたくさんいる。ウリマル(半島の言語)はなぐさめ程度しかできない。つまり、民族意識など持ちようもないし、持つ必要性も低いケースが多々ある。

 日本国籍を取得する帰化者も増えた(特別永住資格を有する在日の数は今日38万人にまで減った)。もちろん、日本社会から差別を受けるくらいなら、帰化した方がマシという思いもあるだろう。けれど、「暑苦しい」在日同胞のコミュニティから足を洗いたいとの気持ちもあるのではないか。

 だとすれば、3世以後の在日は、前の世代からの恩恵を享受しつつも、それと同じやり方で民族心を鼓舞してばかりではダメだろう。前の世代を猿マネするだけでは、芸もない。

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林 晟一

はやし せいいち

1981年、東京都生まれ。2014年、慶應大学大学院法学研究科博士課程中退。雑誌『アステイオン』編集協力者。『中央公論』(2014年5月号)に寄稿した「在日であることの意味」が反響を呼ぶ。ハフィントン・ポスト日本版にブログを定期的に寄稿。(http://www.huffingtonpost.jp/seiichi-hayashi/


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