蘇我入鹿殺害事件、真犯人に迫る4つの黒幕説
「乙巳の変」の黒幕は誰だ? 第1回
■宮廷を舞台にした政変劇。もっとも有力視されている黒幕は……
奈良時代に成立した我が国最古の歴史書『日本書紀(にほんしょき)』や、藤原(中臣)鎌足の伝記である『藤氏家伝(とうしかでん)』に描かれているように、その後の政治改革「大化の改新」へとつながるクーデター「乙巳(いっし)の変」を実行したのは、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足だった。これは動かしがたい事実だ。しかし近年になり、その黒幕の存在を想定する見解が、いくつか出されている。
黒幕として、もっとも有力とみられているのは、皇極(こうぎょく)天皇と孝徳(こうとく)天皇による共謀説だ。それはクーデターの結果、姉の皇極天皇から弟の孝徳天皇へと譲位(じょうい)されているからだ。
注目すべきは、史上初めての譲位だったということである。皇極天皇と孝徳天皇の両者に、かねてから意思疎通があったと考えるのは、いたって自然な考えである。いずれは自分の息子に天皇の位を譲りたい皇極天皇と、この時点では皇位継承レースからはずれ、一発逆転にかけた孝徳天皇の利害が一致したとみる。
一方、若い中大兄皇子は単なる手駒にすぎず、中臣鎌足こそが首謀者で黒幕だったとする解釈もある。『藤氏家伝』では、鎌足が孝徳天皇のことを軽く見ていたうえ、鎌足自身が人脈をたくみにつないで、クーデターの謀議を完成させたことが浮かび上がる。
さらに、蘇我(そが)氏の内紛に注目する見解もある。クーデターによって蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の親子は死亡したが、蘇我氏が滅亡したわけではなかった点に注意したい。同じ蘇我氏でも、分家筋にあたる蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)は、入鹿暗殺にも大きな役割を担った人物で、クーデター後の新政権では右大臣へと昇進している。石川麻呂は、蘇我本宗家の滅亡によって、一気に政治の中枢へ躍り出たのだから、動機は十分にある。
また、単に日本国内の権力闘争ではなく、東アジアでの国際関係を軸にした見解も注目される。589年に隋(ずい)が中国を統一して以降、中華帝国が周辺諸国へ圧力をかけたため、朝鮮半島の3カ国や日本国内で政権の再編が促された。
その結果、このようなクーデターが起こったとする考えである。
いずれの解釈が正しいのか。それぞれの学説を詳しく見ていきながら、読者とともに古代史最大のミステリーの謎に挑んでいきたい。
《「乙巳の変」の黒幕は誰だ? 第2回へつづく》