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「尼崎戦国散策④秀吉と佐々成政と」

季節と時節でつづる戦国おりおり 第275回

 尼崎城址公園からはすぐ尼崎駅。駅ロータリーを横断し、西の寺町へ。ここらが最終ポイントとなります。寺町を歩いていると、こんな看板? が。
「太閤記伝 秀吉由緒寺」

 

 これは見逃せませんな。山門にまわって中を拝観させていただきましょう。

 

 おお、境内にも石碑がありました。なんでもこのお寺、廣徳寺さんは天正10年(1582)本能寺の変直後、羽柴(のち豊臣)秀吉が備中高松から明智光秀攻めに大返しする途中、休憩したとも伏兵に襲われて逃げ込んだともいう伝承があるそうな。ちなみに由緒の元ネタは『甫庵太閤記』ではなく、もっと後の時代の『絵本太閤記』などです。

 それによれば、あまりに速く馬を走らせたため近習たちを置き去りにしてしまい、ひとりになってしまった秀吉が、光秀の重臣・四王天政孝の待ち伏せに遭い、逃げ込んだ先がこのお寺だったそうです。秀吉はさらに裏の寺に飛び込み、庫裏の風呂に潜り、そのあと頭を剃って僧衣を着、坊主たちに混じって台所で味噌を摺って敵の目をごまかした、とあります。秀吉は尼崎で髻を落とし、頭を剃って「主君・織田信長の弔い合戦」をぶちあげたといいますから、それをうまく取り入れた話ですね。

 ちなみにこのお寺は、「尼崎戦国散策①大物周辺」の回で紹介した「大物崩れ」の主役、管領・細川高国が自刃した場所でもあります。

 この廣徳寺さんの西の並びには、もうひとつ戦国マニア必見のお寺さんがあります。それが、法園寺さん。

 

 写真を見れば一目瞭然、佐々成政のお墓があるお寺です。越中国を領した成政は秀吉に敵対したあと降伏し、いったん領地を没収された後改めて肥後一国を与えられましたが、肥後一揆の責任を問われ、大坂に召喚されて途中のこのお寺に謹慎させられ、切腹を命じられました。天正16年(1588)のことです。

 

 

 切腹の際、成政は寺の庭の池の前の石に腰掛け、金30枚と衣服などを遺品としたうえ、「この石は内蔵助(佐々内蔵助成政)腰掛石と呼ぶように」と言い置いて十文字に腹を切り、内臓を引きずり出して首を落とさせたといいます(『川角太閤記』)。肥後一揆は秀吉から命じられた検地を忠実に実行しようとした結果だったとも言い、秀吉への恨みと怒りがこのすさまじい切腹の風景となったのでしょう。

 秀吉ゆかりのお寺さんと成政ゆかりのお寺さんが同じブロックにあるという、皮肉な光景を目にしたところで、今回の尼崎散策はおしまい。
 

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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