播磨をめぐる西軍・山名家と東軍・赤松家の争いとその顛末 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

播磨をめぐる西軍・山名家と東軍・赤松家の争いとその顛末

シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」⑬【最終回】

■秀吉の籠城戦に絡むこととなる山名豊国

写真B-4)播磨守護代・別所長治『絵入名将百史伝』中央出版社/国立国会図書館

 応仁・文明の乱で東軍についた赤松政則は、播磨・備前・美作3か国の守護職を回復するとともに、侍所の所司にも任ぜられた。
 勢いに乗じた政則は、山名宗全の跡を継いだ山名政豊に対する攻勢を乱後も強めていく政則は、山名一族の領国である因幡・伯耆の国人に反乱をおこさせたが失敗してしまう。そればかりか、逆に、山名政豊によって、本国の播磨に攻め込まれてしまったのである。
 こうして、一時的に播磨は山名氏の支配下におかれてしまったが、政則は根強い抵抗を続け、長享2年(1488)、山名勢を播磨から撤退させることに成功した。
 山名勢を駆逐した赤松政則の活躍により、赤松氏は名実ともに復権をはたしたが、明応5年(1496)に政則が急死してしまう。跡を継いだ養子の赤松義村は、備前守護代の浦上村宗と対立し、その結果、義村は大永元年(1521)、村宗に暗殺されてしまったのである。
 浦上村宗は赤松氏の実権を握るだけではなく、管領を務めた細川高国を支援して幕政にも影響力を及ぼした。そして、享禄4年(1531)、細川高国を支援して細川晴元と摂津天王寺で戦ったが、このとき、赤松義村の子晴政は細川晴元について村宗を討ち取ることに成功する。さらに、浦上氏の勢力を一掃して権力の拡大を目指したものの、出雲の尼子晴久、摂津の三好長慶に領国を奪われていく。しかも、晴政は嫡男の義祐と対立し、赤松氏はさらに弱体化してしまったのである。その結果、東播磨では守護代の別所氏が自立し、義祐と子の義房の代には西播磨をかろうじて維持するだけとなった。
 そのころ、山名氏の一族は、但馬守護家と因幡守護家の2家に分かれていたが、山名政豊の孫にあたる但馬守護の祐豊は、天文17年(1548)、一族をまとめるべく因幡守護の山名誠通を滅ぼし、弟の豊定に因幡を支配させることに成功していた。織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、播磨や但馬に進出してくる20年前のころのことである。
 このとき、実質的な権力をほとんど失っていた播磨の赤松則房は、信長に降伏して家名を保った。
 一方、但馬の山名祐豊は、信長の重臣羽柴(豊臣)秀吉に居城の有子山城を攻められて降伏し、ほどなく死去した。自刃したとも病死ともいう。
因幡にいた山名豊定の子豊国は、居城の鳥取城を秀吉に攻撃されて降伏したものの、毛利氏に通じた家臣に追い出されてしまった。残った山名氏の家臣らは、毛利氏から吉川経家を城将に招いて籠城したが、いわゆる「鳥取の飢え殺し」で落城している。
 追い出されてしまった山名豊国の方が生き残り、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方に付く。のちに徳川家の上級旗本として但馬山名家の血筋でもある豊国の家系が山名氏宗家を存続させている。

2019年から開始したこの連載も、13回目の今回が最後になりました。ご愛読ありがとうございました。

KEYWORDS:

オススメ記事

小和田泰経

おわだやすつね

静岡英和学院大学講師

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)『戦国合戦史辞典 存亡を懸けた戦国864の戦い』『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』『戦国大名の山城を歩く』(ともに新世紀社)など多数。


この著者の記事一覧