宇野常寛の上京物語「僕と同世代の人が書いた記事やコラムを見て…」
宇野常寛さん3月毎日更新 Q5. 「会社勤めをしているときに感じていたことは?」
京都でのサラリーマン時代。そして東京へーー
大学卒業後は、就職せずに1年間ブラブラしていました。人生に迷ったというか、当時の僕には「世の中をこうしたい!」とか「こういう人生を送りたい!」というのがなくて。大学院に行くのもいいかなと思ったり、ちょうどその時、親から「就職とセットで実家に帰ってきてほしい」と言われて、それも悪くないなと思ったりもしていました。
1年ブラブラした後に選んだのは京都での就職ですね。サラリーマンとして働きながら、ウェブサイトの記事を作る仕事を選びました。
僕が所属する部署は僕と上司の2人だけ。その上司は団塊世代の人で、両親より年上でしたが、すごくかわいがってくれました。その上司が偶然、評論を書いている人だったんです。そんなに有名ではないですが、ペンネームで村上春樹や荒井由実の評論を書いている人で。そのことを教えてもらったときには「ああ、こんな生き方もあるんだ」と思いましたし、僕も書いてみたくなりました。
もともと、大学4年の頃には大学の友達と評論のテキストサイトを作っていたんです。当時は多少話題にもなったんですけど、大学生の趣味という感じで、本格的に書いたことはなかったです。評論を読むのはもともと好きだったのですが、その後まさか自分が評論を書くことになるとは思ってもいませんでした。
あと、当時26~27歳でしたが、僕と同世代の人間が雑誌で記事やコラムを書くようになるんですよ。雑誌が好きだったのでよく読んでいたのですが、そいつらが書いているものが本当におもしろくなかった。「僕が東京に出て本気を出したら、コイツらを蹴散らせるんじゃないか」と本気で思ったわけですね。
そういった流れもあり、自分でも評論を書いてみようと思ったのがこの頃ですね。あと、メディアを作るのも好きでした。大学時代にテキストサイトを作ったのもそういった理由がありますし。評論を書きたいということに加えて、「自分でメディアを作りたい」という欲望を持つようになり、『PLANETS』を創刊することになりました。
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