江華島砲台の意味―後篇
外川淳の「城の搦め手」第102回
前回に引き続き、江華島事件の意味を語ってみたい。
1866年、フランスは江華島に対して攻撃を加えた。3隻の軍艦が艦砲射撃によって陸上砲台を制圧したのち、300名の陸戦隊が上陸して島の中心部を制圧。
さらにソウルへ進撃しようとしたところ、兵力が少なかったため、朝鮮軍によって阻止された。
1871年、アメリカは軍艦5隻、陸戦隊1230名の兵力により、江華島を攻撃したものの、結果は同じだった。
このころの朝鮮軍の近代化は、まったく進展してなかった。にもかかわらず、西洋列強が武力行使をしても、黙殺することができたといえるのだ。
当時の蒸気式軍艦は、搭載できる砲弾が限られており、艦砲射撃を加えると、弾丸を補給するため拠点へ引き返す必要があった。
そのため、たとえ朝鮮の砲台が貧弱であっても、敵艦隊の弾丸を消費させるという利点があった。
また薩英戦争では、薩摩藩の沿岸砲台は壊滅的被害を受けた。だが、砲台からの反撃によってイギリス艦隊は損害を受け、弾丸も消費したため、休戦協定を締結せざるをえなかった。
つまり、砲台は存在すれば無防備よりも一定の効果があったのだ。
台場と称される日本の沿岸砲台は、軍事的には役に立ちそうにない、ちゃちなものが圧倒的多数を占める。
だが、そんな台場であっても、存在する以上は敵艦隊の砲弾や燃料を消費させる価値があるということを第一次と第二次江華島事件を知ることによって理解できた。
また、幕府がペリー艦隊との交渉を拒絶し、交戦したとしても、たいした脅威にならなかったことを江華島事件から推測することができた。