海防意識の温度差 鳥取藩編
外川淳の「城の搦め手」第90回
■8ヶ所の台場
隣接する松江藩に対し、鳥取藩の危機意識は低くなかったものの、文久2年(1862)と築造開始は遅く、台場の数は8カ所。
ただし、品川台場の築造と警備を幕府から命じられた経験を生かし、数は少なくとも、全国屈指の実戦的な大型の台場を築造したと評価できる。
19世紀前半については、松江藩が小規模な台場を沿岸に配置していたのに対し、鳥取藩は無防備な状態に等しかった。
だが、文久2年以後、鳥取藩が大型の台場を領内に築造することにより、鳥取藩の海防体制は松江藩を追い抜いたといえよう。
結果的には、ロシアが山陰沿岸に襲来して上陸作戦を展開することはなかったものの、同じエリアにおいても、海防意識の違いにより、防衛体制が斑模様を描くという危機的状況が続いていたのだ。
藩という地方の行政組織が乱立する江戸時代の体制では、このような海防意識の相違が生じるのは不可避だった。
ある意味、明治維新が達成された要因の一つとしては、統一された海防戦略により、防衛体制を強化するためだったとも評価できよう。