「ひきこもり」だったわたしに、両親がしてくれたこと【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵
わたしは専門家ではないので、こうした相談者たちに、なんら具体的な指導を行うことはできない。話を聴かせてもらうだけである。ただ、一つだけ伝えていることがあるとすれば、ひきこもり当事者に対しては「待っています。また連絡をください」、親に対しては「待ちましょう。今すぐ決断を迫るような会話は、今はしないでおきましょう」である。それらもアドバイス臭くならないよう、相手の話をよくよく聞いたうえで、細心の注意を払ってのことである(だから言わないこともある)。
わたしは高校三年生だった六月、とつぜん学校に行けなくなった。学期テストの直前か途中くらいだったと思う。校門をくぐろうとすると吐き気がして、回れ右で家にまっしぐら。ついには家から出ようとするだけで吐き気をもよおすようになった。その学校には補講や追試など落第防止の選択肢はなく、欠席日数が一定数に達した時点で、わたしは留年が決定した。だが留年後もわたしの体調は回復せず、けっきょくわたしは高校を中退することとなった。
その後は大学入学資格検定試験(現在の高卒認定試験)を受けたり、浪人をしたりしていたのだが、なにしろ電車やバスに乗っただけで緊張して気分が悪くなるのである。基本的には家にひきこもる日々であった。かつての友人たちと顔をあわせるのが嫌だったので、散歩をするにしても、それは深夜に限られていた。街灯を映す重油のような川。月明りの製鉄所。いつまで生きていないといけないのか。しかし死ぬのは恐い。そんなことを想いながら、とにかく歩いた。散歩が終われば、家族が寝静まった自室で漫画を読み耽ったり、暗い居間のテレビにゲーム機をつないで、ゲームに打ち込んだりした。
ひきこもり浪人生活最後の年明け、阪神淡路大震災が起こった。わたしは不十分な仕上げのまま受験に臨んだ。案の定結果はうまくいかず、不本意な進学となった。だが進学先の理系の大学は実験などのカリキュラムが厳しく、わたしのような中途半端なモチベーションを許す場所ではなかった。震災の体験がこびりついて離れず、しばしば過呼吸の発作に悩まされていたわたしは、けっきょく単位取得もままならず、その大学も中退。ふたたびひきこもりとなった。大学に残した私物は父が取りに行ってくれた。父は滲み出る汗を拭きながら、どんな無念を抱えて校門に至る坂を登っただろう。亡き父の心中を想うと、今でも胸が締め付けられる。