「ひきこもり」だったわたしに、両親がしてくれたこと【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵
わたしたちは「待つ」という行為を消極的な姿勢と見なしがちである。あるいは、待っている時間は無駄なのであり、できるだけ待ち時間の少ない、つまり無駄のない生活をしなければならないと考える。だが人間の人生というレベルでものを観るとき、無駄か否かという視点では語り得ないものがある。ある人が、その生き方において変わるのか、変わらないのか。その人は自分を変えられるのか、変えられないのか。変化は自分で起こすのか、何かに促されて起こるのか────そういう大きな問題について、拙速な結論を出すのはよくないとわたしは思う。大切な基本姿勢は、待つことである。聖書には「何事にも時がある」、そして「人が労苦してみたところで何になろう」と語られている。この詩は、人間の労苦を全否定しているのではない。ある人に変化が起こるタイミングを、本人あるいは他人が、人為的に操作したり確定したりすることはできないと言っているのである。
ひきこもっている人にも、その親にも、さまざまな事情があるだろう。「ひきこもり」という単語で一括りにするにはあまりにも多様なものが、その言葉には詰まっている。だからこそ、わたしは待つことのゆたかさを語りたいのである。待つ? そんなきれいごとを言っていられるか! たしかにそうかもしれない。ひきこもる子もその親も、焦ることもあるし、足掻かずにはおれないこともあるだろう。人間なんだから焦ったり落ち込んだりするのは当たり前である。だが、その焦りや落胆の底に、ひきこもる当事者への、そして当事者による自分自身への信頼として、待つ希望があってほしいと、わたしは思う。
文:沼田和也