江戸幕府3代将軍・徳川家光の寿命を縮めたのはお米だった!
謎の病気「江戸わずらい」に悩まされた【和食の科学史⑪】
■江戸の奇病「江戸わずらい」
太平の世が続いて社会が安定すると、新田開発と稲の品種改良が進み、米の生産量が急速に増えました。また、それまで臼と杵で精米していたのが、中国大陸から足踏み式の唐臼という石臼が伝わり、さらに江戸時代中期になると水車を使うようになって精米効率が大きく高まります。これにより白米を食べる習慣が江戸、大坂など都市部の庶民に一気に広がりました。「大坂」は明治初期まで使われていた表記で、土がつくのは縁起が悪いとして「大阪」と書くようになったそうです。相撲で負けることを「土がつく」というからでしょうか。
現代のように決まった分量の米と水を釜に入れて加熱し、水分を米にすべて吸わせる炊きかたをするようになったのも江戸時代です。古代までさかのぼると、米はお粥や雑炊にするか、おこわのように蒸して食べるのが普通でした。米をゆでることもあり、鍋に水を多めに入れて米を加え、沸騰したら余分な湯を捨てて食べていました。こうすれば、米に混ぜた雑穀が十分やわらかくなるからです。
江戸時代に入り、誰もが米を食べるようになると、おいしさの追求が始まります。やがて、炊き上げて蒸らすことで、ご飯の甘みと、もっちりとした食感を引き出す、現代に通じる炊きかたが開発されました。
白米は玄米や麦ご飯とくらべて消化がよく、冷めてもおいしく食べられます。忙しい職人さん、農家の人、産業の発達によって江戸の町に増えた商人たちにとってありがたい習慣でした。
東海道、中山道などの五街道が整備されたことで人の往来が活発になり、おにぎり弁当も普及しました。農民も田畑におにぎりを持参したようです。元禄時代、1700年ごろには浅草海苔の養殖が始まり、おにぎりを海苔で巻くようになったと伝えられています。醤油、砂糖、昆布、鰹節も広く使われるようになりました。蕎麦やうどんを醤油で味つけして食べるようになるのは元禄時代を過ぎてからです。それまでは味噌だれが一般的でした。
職人さんは作業の合間に何度も軽食を取るため、すぐ食べられる蕎麦や鮨、天ぷらなどが手軽なファストフードとして人気になります。この時代は、「すし」のことを江戸では「鮨」、上方では「鮓」と表記していたようです。当時は薪の価格が高く、庶民にとっては自宅で料理するより外食のほうが安上がりでした。火の不始末で火事を起こすのをおそれたという事情もあったでしょう。
飲食店は屋台と行商がほとんどで、幕末の記録によると江戸の町全体で蕎麦屋が3760軒あり、鮨屋はその倍の7000軒以上、逆にうどん屋は数えるほどしかありませんでした。図12は江戸時代後期に成立した『守貞漫稿』に描かれた鮨売りの姿です。関西風の押し鮓は姿を消し、にぎり鮨ばかりで、人気のネタはコハダ、マグロ、タコなど。一番高いのが卵焼きでした。
肉食は表向きは禁止でしたが、「薬」として食べるのは黙認されていました。1690年には、現在も近江牛の産地である彦根藩が牛肉の味噌漬けを考案し、滋養強壮の薬として販売を開始しました。馬肉をサクラ、猪肉をボタン、鹿肉をモミジとする風流な呼び名も生まれ、熊、タヌキ、ウサギ、ヒキガエルなどの肉を売る店が多数あらわれます。
幕末には鯨肉専門店も開業しました。江戸では毎年12月13日にすす払いを行い、終わると塩漬けの鯨肉を入れた汁物を食べるのがならわしだったそうです。消費量では魚の比ではなかったものの、肉を「薬」ではなく、「楽しみ」のために食べる習慣が広がり始めていました。
ところが、活気にあふれる江戸の町に、次第に「江戸わずらい」と呼ばれる奇病が繰り返し流行するようになりました。脚気が庶民にも広がったのです。江戸わずらいといわれたのは、地方の人が江戸に働きに来ると発病し、地方に戻ると治ったからです。この時代になっても、地方では玄米か、雑穀と野菜を混ぜて炊いた米を食べていました。
それにしても、ちょっと不思議に思いませんか? 現代の日本人は白米ばかり食べているのに、なぜ脚気にならないのでしょうか。それは、豚肉、レバー、豆などのおかずからビタミンB1を十分に摂取できているからです。これに対して、昔の人はご飯をしっかり食べて、おかずが少ない傾向がありました。そのため、ご飯を白米にしてしまうとビタミンB1が不足しやすかったのです。