なぜ、あの人は自死を選んだのか。「遺された私」が見つけた、一つの「答え」【あさのますみ】《特別寄稿》
『逝ってしまった君へ』著者・大切な友人の自死を経た「遺された人」のこれから
声優・浅野真澄(文筆家名義・あさのますみ)が体験した、大切な人の「自死」。失って初めてわかる、大きな悲しみと日々の「気づき」を赤裸々に綴ったショートエッセイが、2020年3月「note」に掲載され大きな反響を呼んだ。この度、当作を大幅に加筆しまとめた長編エッセイ『逝ってしまった君へ』(小学館)が、書籍化。 著者・あさのますみさんが「『逝ってしまった君へ』を書きはじめるまでと、書き終えた今思うこと」をBEST TIMESに特別寄稿。
親しかった友人が、自ら逝ってしまった。
そう知らされてからの数ヶ月間を、今もよく覚えている。友人の死を受け入れるすべがわからず、一番混沌としていたころだ。
あの、泥の中をひとりきりで歩くかのような、毎日。
私は、なにをしていても頭の中で常にぐるぐると、友人の死について考えていた。理解ができなかったからだ。理解ができないことは、人はたとえ時間が経とうと受け入れることなどできないのだという心の法則を、くり返し思い知る日々だった。苦しかった。あのころ、道ですれ違う見知らぬ人たちの顔を目で追うのが癖のようになっていた。笑顔の人を見ると、安心した。
――ああ、あの人は幸せそうだ。あの人はきっと自ら死んだりしない。
思考力の落ちた頭で、誰かとすれ違うたびそんなことをぼんやり考えた。考えながら、突然噴き出すように涙があふれることもあった。きっと私は、かなり不安定になっていたのだと思う。
関心のあるトピックスにランキングをつけるとしたら、1位から20位まで全部が友人のことで埋め尽くされていた。そのくせ、友人の死を人に話すことができなかった。誰かに話すには、あまりにも心が不安定すぎた。説明もたくさん必要だった。カジュアルに口にできる内容でもなかった。なにより私が話してしまったら、聞いた相手はなにか言わなくてはと言葉を探すだろう。そのコメントを聞くのが嫌だった。どんな言葉をかけられても悲しくなると、わかり切っていたからだ。