藤田田物語②「人生はカネやでーッ!」左翼学生に放った言葉
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり②
■兄貴と慕われる
1944(昭和19)年4月、藤田は、戦火の激しい都会を避けて、山陰の学府・旧制松江高等学校に入学する。18歳のときのことだ。5か国語ほどを使い分けたという、語学の得意な父親の影響もあって、ドイツ語を第1外国語とする文科乙類に入った。「英語は中学時代5年間勉強して、ある程度マスターしていたので、もう1か国語くらい覚えたい」(藤田)というのが文乙志望の動機だった。文乙には好奇心の強い、少し大人びて、ひねくれた発想をする人間が集まっていた。
藤田にとって不幸だったのは寮生活を一緒に送ったクラスメートが、肺結核に冒されていたことだ。入学して半年もすると体調を崩し、京都帝国大学で診断を受けた。その結果、肺結核で右肺に鶏卵大の空洞が二つあるのが発見された。
診断をした京都大学結核研究所の岩井教授は、今ここで棺桶屋に電話をして棺桶の予約をするか、ただちに入院して人工気胸をやるかのどっちかだという。このままでは、あと2か月の命だともいう。
私は、入院して人工気胸をやったら治るのかとたずねた。岩井教授は、それはわからないが、入院したら治すように全力をあげるという。私はやむを得ずに、即時入院を選んだ。
入院をしたら、今度は、肛門のまわりに穴があく痔瘻にやられた……(中略)……。
痔の手術は、痛いうえに恰好も悪い。尻の穴を人に見せるというのは死ぬほど恥ずかしい。しかも若いから、看護婦を見て体に変化が起きないように、シンボルに絆創膏を巻いて足に固定してしまう。まさに、踏んだり蹴ったりである。
痔瘻はどうにか治ったが、結核は2~3年は安静にしていないといけないという。松江高等学校は、2年連続落第は放校だという。
人工気胸というのは、空気を入れて、肺が動かないようにしておいて、そこへ栄養を送り込んで結核を退治するという治療法である。現在は抗生物質の出現で、人工気胸はやらなくなったが、当時は唯一の治療法だった。
私は、死んでもいいと思って、学校へ出た。医師とは喧嘩別れである。そして松江の日赤に週に一度通って、空気を詰めかえてもらっていた。この人工気胸が私には効いた。
(『Den Fujitaの商法④ 超常識のマネー戦略 新装版』)
藤田は寮の監督に事情を話した。そうすると、「無茶をするな。体調の悪い時は寮で寝ていても出席扱いにしてやる」と温情をかけられた。結局藤田は寝込むまで悪化せず、1年間の休学扱いですんだ。といっても小学生浪人の1年間を加えれば、2年間棒に振ったことになる。だが藤田にとっては、この2年間の道草が読書に親しむなど人間力を鍛えるのである。藤田はこのころから〝怪物〟ぶりを発揮し始めた。
旧制松江高校は、数ある旧制高校の中でも弊衣破帽、汚いことにかけては土佐の高知高校と並び称される。〝蛮カラ〟の校風で知られていた。同校の先輩で、雑誌『暮らしの手帳』の名編集長だった故・花森安治氏が「女学生用のスカートをはいて、タクアンをボリボリとかじりながら、松江大橋の欄干(らん かん)の上を歩いた」という伝説が語り継がれるほど〝蛮風”でなる学校である。良くいえば、自由、革新の気風が強かった。
ここで藤田は、応援団長、クラス総代、記念祭委員長などさまざまな役職をつとめることになる。これらは名誉職ではない。選挙で選ばれるもので、人格、識見、主義主張、能力、人望などが問われた。藤田は、何かことがあると飄々(ひょうひょう)として壇上に進み出て、自分の主張を早口の大阪弁で理路整然とまくしたてた。元来、こういう選挙では学校の教職員と近い関係にある学生が立候補したり、組織をバックにした左翼系学生がアジったりするのが常で、それに一般学生が追随するというスタイルが多かった。藤田は、そのような学生自治のあり方に不満を唱え自分の主義主張を訴えた。
藤田の最大の武器は弁論だった。藤田の話は具体的で、左翼学生たちの舌鋒を軽く論破するだけの論理性、正当性、説得力を持っていた。加えて、藤田の人間的な魅力から、〝兄貴〟と慕う親衛隊も大勢おり、選挙となれば、誰よりも強かった。むしろ、学校の教職員が「藤田が選ばれると、何をするかわからないし、無理難題をふっかけられる可能性もある」という危惧から、選挙妨害もやりかねなかったほどだった。
藤田には類まれなアジテーター(扇動者)の素質があった。