藤田田物語②「人生はカネやでーッ!」左翼学生に放った言葉
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり②
■「人生はカネやでーッ!」
戦後は混乱と不安で始まった。食糧難がこれに追い打ちをかけた。旧制松江高校の生徒たちも、自らの食べ物を確保するために奔走しなければならなかった。
いつの世も時代の転換期には、藤田のように行動力、指導力、決断力を持った人間がその非凡な才能を発揮する。藤田は旧制松江高校の同窓会関係の人脈を使うなどして、隠岐島に渡ると、西郷町の町長と交渉し、魚を定期的に寮に入れてもらう約束を取り付けた。また、1946年の寮祭のときには、広島国税局と交渉し、煙草の特配を受けた。さらに、同じ年のインターハイのときには、県庁の隠匿(いんとく)物資となっていた木綿の反物を水泳部の六尺ふんどし用に大量に払い下げてもらった。加えて、この反物を米や魚と物々交換することで、京都のインターハイに参加していた旧制松江高校生の10日分ほどの食事を賄うという離れわざを演じた。
すでにこの時代から、藤田には商才の萌芽(ほうが)が見られたのである。
それは藤田が得意としていた英語、英会話が解禁になったことが関係している。
なにしろ、文化祭やインターハイなどの催しは、すべてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可を得なければ開催できなかったので、藤田は、松江に進駐してきたGHQの本部に出かけて行っては「文化祭をやるから便宜をはかってほしい」と交渉した。その際の英会話力について藤田は、「ブロークン・イングリッシュだった」と謙遜するが、相当の英会話力であったようだ。当時、米軍キャンプのGI(米兵)といえば泣く子も黙る怖い存在で、日本人はGIを避けるようにした。しかし、英語が通じる藤田には、むしろ親しみやすく冗談の言える相手だった。GHQは多発する日本人とのトラブル解決などのために大量の日本人通訳を必要としていた。
そういうご時世であっただけに藤田はすぐにGHQのアルバイトに採用され、高額なアルバイト料を稼ぐようになった。
GHQは食品や嗜好品、衣料品など豊かな物資にあふれていた。それらを見るにつけて藤田は、「日本が戦争に負けたのは米国の経済力、物量によるものだ」と確信した。そして、「日本が焼け跡、闇市の悲惨な状況から立ち直るためには、一日も早く経済力を復興させることが大切だ」と考えた。
藤田はGHQのアルバイトをすることで、左翼系学生たちと思想的に対峙していった。藤田は、「人生はカネやでーッ! これがなかったら、救国済民も何もできゃせんよ!」と、叫んだ。これは父親を亡くし、自力で生きてゆく道を見つけなければならなかった藤田の本音といえた。
(『日本マクドナルド20年のあゆみ』より加筆修正)〈③へつづく〉