藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり
■太宰治、山崎晃嗣との交流
東大在学中に藤田は、戦後史を彩った人物たちとつき合っている。「光クラブ事件」で有名な山崎晃嗣(あきつぐ)や、流行作家の太宰治らである。
GIスタイル、あるいは新調の背広にネクタイを締めて、藤田は、いつも東大に通った。まわりの学生たちが復員服姿で登校してきた時代に、藤田のダンディな服装は、ひときわ学内で目立った。
旧制松江高校時代、応援団の団長をして〝蛮カラ〟の最右翼にいたころとは、180度の転換である。
東大の法学部にはもうひとり、藤田と同じような服装で講義を受けにくる人間がいた。それが、学生金融「光クラブ事件」で有名になった山崎晃嗣であった。
「東大は天下の秀才、異才、奇才が集まってくると考えていたけれど、本当に話して面白かったのは山崎くらいしかいなかったですね。計算の早い男で8ケタ×8ケタは暗算でパット答えが出せるといっていました。それに女にモテて8人は愛人がいるといっていましたね。実際に計算したのを見たわけではないし、愛人8人がいるのも見たわけではないですが……。話していて頭がいいなと思ったのは、頭が整理されていて次、次、次というように論理立てて話すところでした」(藤田)
山崎は、東大開校以来の秀才といわれた若槻礼次郎(元首相)の再来と騒がれた〝奇才〟であった。
学徒出陣組で、終戦を北海道旭川市で迎えた。陸軍主計少尉で東大に復学。1948年9月、学生仲間と金融会社「光クラブ」を設立した。月1割3分の配当で投資家を募り、月3割に近い高利、すなわち10日で1割の利息を取る〝トイチ金融〟でおもしろいように儲けた。藤田は何事にも好奇心が強く、学徒出陣組の山崎の心情には強く共感を覚えた。一説には藤田は光クラブに融資していたと言われる。
山崎は自著『私は偽悪者』で、「人間の性は、本来傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である故(ゆえ)、私は人間を根本的に信用しない」と書き、「国家も女も信用するな」と述べている。
これは筆者が藤田から聞いたことだが、山崎が資金的に行き詰まり、にっちもさっちも行かなくなったとき、国際法にいう「事情変更の原則」、すなわちまわりの状況が変われば主張を変えても良いという原則を持ち出して、山崎に「自殺する手がある」とほのめかしたという。筆者は山崎が国際法にいう「事情変更の原則」を持ち出して、1949(昭和24)年11月25日、光クラブ(銀座證券保証株式会社)の社長室で青酸カリによる服毒自殺を遂げたのは、藤田のアドバイスだったのではないかと思っている。
社長室の机の上には、「高利貸冷たいものと危機しかど死体にさわれば……氷カシ」、「貸借法すべて清算カリ自殺」などの遺書と手記が遺されていた。
山崎はまだ、東大法学部3年生、27歳の若さだった。その生き方のデカダンス、頽廃(たいはい)的な傾向からアプレ・ゲールの犯罪、略して〝アプレ犯罪〟と呼ばれた。
「山崎は頭が良すぎて、先が見えすぎて、思い詰めて死んじゃったところがありますね。ちょうど医者が病気になると病気の末路を知っていて悲観し、普通の人より早く死んでしまうのと同じことです。人間というのはある程度バカな方がハッピーなのかもしれませんね」(藤田)
このころ、藤田は「作家の太宰治とも三鷹でよく飲んだ」という。軟弱という理由で藤田は、太宰の文学をきらった。経済を復興させるような元気な文章を書いて欲しいと願っていたという。
それでも藤田には良い飲み相手だったようで、三鷹駅前の屋台で飲んで、酔っぱらって太宰の三鷹の家にも行ったという。
太宰は、山崎が自殺する前年の48(昭和23)年6月13日に愛人の山崎富栄と玉川上水に飛び込んで心中したといわれる。
藤田は、たまたま太宰が自殺する直前まで、三鷹の酒場で飲んでいた。
「とにかく、あの日は雨がザンザン降りの上に、太宰はカストリ焼酎で酔っていた。そこへ女性が傘をさして迎えに来たんです。それで二人で帰っていったんですが、太宰は下駄履きで足元がフラフラでした。『危ないから気をつけなよ』といって別れたほどです。あの状況からいって、私は、太宰は自殺したのではなく、玉川上水の狭い道で足を滑らせて、あの災難に遭(あ)ったんだろうと思っています」(藤田)
太宰と愛人の山崎の死体が玉川上水の下流で見つかったのは、同年6月19日のことだった。二人は赤い紐(ひも)で結ばれていたといわれる。その後も報道は過熱し、愛人の山崎の遺書なども出てきて、太宰の死は心中だったといわれるようになった。
筆者が藤田にインタビューした91(平成3)年には、太宰が心中してからすでに43年経っていた。
「当時、太宰はカストリ焼酎を飲むと、ゴホンゴホンと咳(せき)をしてコップに半分くらいの血を吐いていました。結核は相当進んでいて、太宰にはいつ死んでもいいという絶望感があったんだと思います。今から思うとそういうストーリーの中で死んだのだと思いますね」
藤田は東大法学部の1~2年生の頃、GHQの通訳の高給取りとして築地に好物の寿司を食いに行ったり、毎晩飲み歩いていた。
光クラブの山崎やデカダンス(フランス語で退廃、衰退の意味)の作家・太宰と親しくつき合ったのは、藤田自身の中に当時、彼らの生き方に共感する虚無的な心情があったからかもしれない。