藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり
■北野中学同期の藤田田と後輩の手塚治虫
東大法学部の2年生のとき、日本共産党に入党した松本善明が広く知られるようになったのは、61(昭和36)年に日本共産党衆議院選挙予定候補として、次の選挙に東京4区(中選挙区、渋谷区、中野区、杉並区)から立候補することが決まってからだ。松本は、松川事件・メーデー事件の弁護団などに加わっていたが、62(昭和37)年5月、松本善明法律事務所を設立、独立した。63(昭和38)年11月、初立候補した。
その一方で、私は自らの人脈を活かして、立候補の挨拶を精力的に行いました。とりわけ北野中学の友人には力を入れて訴えかけました。(中略)
戦後一五年が経過し、北野中学の同級生は各分野で活躍していました。新進経営者として大成功していたのは藤田田氏(後に日本マクドナルド社長)でした。大学も同じだった彼に面会を求めて、立候補の挨拶をしてカンパをお願いすると快く五〇万という大金を出してくれたのには驚きました。後日、「共産党が政権を取ったときの保険金」としてカンパしたのだという主旨を自著(※『ユダヤの商法』)に書き記しています。(中略)
北野中学の二年後輩である手塚治虫さんにもすぐ挨拶に行きました。手塚さんはあまりにも著名でしたが、初対面の私と意気投合して迷わず巨額のカンパを出してくれました。手塚さんは一度のカンパだけではなく、その後一貫して私と共産党を親身になって応援してくれたのです。妻ちひろの仕事を高く評価してくれていたことも無関係ではなかったかもしれません。 (『軍国少年がなぜコミュニストになったのか』松本善明)
これをきっかけに藤田は法律の解釈や訴訟問題で、松本に相談するようになった。また、藤田の妻、悦子も、いわさきちひろの絵のファンで、家族ぐるみの交流に発展した。
松本は初の総選挙では落選したが、捲土重来を期し、67(昭和42)年1月の総選挙で東京4区から再出馬、初当選した(以来11期33年間の国会議員生活を送り、2003年に政界引退)。藤田は松本の当選祝賀会に招待され、反共側の支援者として次のような挨拶をした。
(中略)日本へ無愛想な顔をして、日本がソ連(現・ロシア)の方へ傾いたらそれこそ大変だからであります。そのアメリカの甘い顔がもたらす甘い汁を、たんまりといただくのが私の商売であります。日本が駄々をこねればこねるほど、アメリカは日本を大切にしてくれます。
つまり、日本という体の中に、共産党というバイ菌がいて、それが暴れれば暴れるほど、アメリカという医者は日本へ良薬を与えてくれるのであります。
その駄々をこねる役割り、バイ菌の役割り、私は、日本の共産党にそれを期待しているのであります。
わたしが選挙資金を一部融通したのは、ソロバンづくでの私の商売にほかならないのであります。
松本君は当選し、みごとにバイ菌の一つとして培養されました。私の投資は成功したのであります。 (藤田 田『ユダヤの商法』1972年5月初版より)
藤田には偽悪家のところがあり、どこまで本音で話しているのか分からないことがあるが、はっきり言えるのは友情を大切にし、義理と人情に厚いことだ。
(『日本マクドナルド20年のあゆみ』より加筆修正)〈④へつづく〉