『三河物語』は戦国の1次資料などではなく、単なる老人のボヤキだ!
1次資料のごとく扱う人が多いが…
■三河武士団の忠誠心を示す、名シーン
幼少期の家康を語る定番エピソードがあります。人質生活の家康が一度だけ里帰りした時、重臣たちが「若が帰ってきたときのために、武器と金と食を貯めております」などと密かに物資を貯めこんでいた蔵を見せます。今川の虐めに耐えながらも未来の当主の帰りを待つ三河武士団の忠誠心を示す、名シーンです。ありそうな話ではありますが、事実かどうかの検証は専門家と好事家に任せましょう。
余談ですが、かつて『少年徳川家康』(NETテレビ 現・テレビ朝日)というアニメがありました。1975年の放映です。笹川良一が率いていた日本船舶振興会(現・日本財団)の一社提供です。笹川良一が自らを投影するかたちで作った『少年徳川家康』でしたが、ぜんぜんウケなくて半年でぽしゃりました。ちなみに、その後番組こそ、超長寿番組となるアニメ『一休さん』でした。
さて、竹千代は元服して、庇護下にあった今川義元の「元」の字をとって「元康」を名乗り、17歳の時に「大高城の兵糧入れ」と呼ばれる最初の戦功をたて、駿河に凱旋します。その時の様子を大久保彦左衛門は《ご譜代衆のよろこびはいいつくせないほどだった。「苦しいなかでとにかくお育ちになり、軍略もどうかと朝夕心配しておりましたが、清康の威勢によくまあそっくりになられたことのめでたさよ」といい、みな涙をながしてよろこんだ》(前掲『現代語訳 三河物語』)と書いています。
見事なまでの、自己催眠です。あったのかなかったのかさえわからないかつての栄光が再来するとでも思い込まないとやっていけなかったのが、当初の三河武士団でした。流浪中のユダヤ人のようなものです。人間、絶望的な状況になると過去のささやかな栄光を過大に美化し、「俺たちだって昔はすごかったんだ。あの栄光を取り戻すために、今の苦難に耐えるのだ」という思考回路に傾くものです。
松平家は、桶狭間の戦いまでのあらゆる戦でこき使われました。事実、その通りです。大英帝国にこき使われたグルカ兵のようなものでしょうか。グルカ兵とは大英帝国に征服されたネパールの山岳民族で、勇猛果敢で知られていました。北清事変では北京まで駆り出され、第2次世界大戦では日本軍とも戦い、朝鮮戦争にも参加しています。
とは言うものの、今川義元は松平をそれなりに遇しています。
家康は義元の親戚の娘である築山殿と結婚させられます。築山殿はお嬢さん育ちの年上女房で、家康と気が合わなかったことから、三河武士団忍従の象徴のごとく語られたりもします。仲が悪いと言う割には、2人も子供を作っているのですが。
今川としては、征服した松平を一族かつ重臣の列に加え、お家を強化しようとしたのです。征服した相手を取り込むという戦略は、義元を補佐した軍師・太原雪斎の知恵です。今川が三河武士団を利用したのは確かですが、奴隷のようにこき使ったと考えると誇張がすぎます。
ちょうど日韓併合後の大日本帝国が、李氏朝鮮の王族と日本の皇女の結婚を推奨したようなものです。
これは松平から見れば、「侵略」です。ちなみに、この場合の侵略は「Seizure(獲得)」です。「侵略」の定訳は「Aggression」ですが、これは誤訳です。「Aggression」は正確には侵攻(進攻)くらいの意味で、「挑発をされていないのに先制攻撃を加えた」という意味です。「侵略」という漢語には残虐にかすめ取るという意味が含まれますが、「Aggression」にその意味はありません。