猟師とは―?猟師の存在意義。命と向き合う。
【第2回】都内の美人営業マンが会社を辞めて茨城の奥地で狩女子になった件
■それでも私は、彼らを狩らなければならない
畑が獣に荒らされてしまうと、その作物が食べられなくなることはもちろんですが、荒らされた周辺の作物はすべて出荷ができなくなる為、収入が激減します。最近では、それが原因で小規模農家の方々が畑を放棄し離農することも少なくありません。従って、皆さんが食べる、スーパーに売っている国産のお野菜の値段はどんどん高騰してしまうのです……。
もちろん、だからといって私は“猟師が(人が)動物の命を奪う行為”を正当化するつもりもありません。違う考え方の誰かに押し付ける気もありません。有害鳥獣と呼ばれる彼らの命もひとつの命であることに変わりはないのですから。イノシシを捕まえる為に山を歩いていると、彼らの社会を目の当たりにします。寝るところや、子供を産むところ、子育て中のイノシシ、妊娠しているイノシシ。仲間や子どもの為に自分が囮になるイノシシだっています……! 新しい道や不審なものを問題がないか、危険がないか自分がチェックしてから、仲間や子どもに合図を出すんです。猟を始めた当初、これには本当にビックリしました。彼らにも私たちのような生活や社会があるんです。
—それでも私は、彼らを狩らなければなりません。自分が生きる為に。
私は物ごごろ着く頃には動物をたくさん飼っていて、そして、たくさんの動物を見送って来ました。どんな命も平等と道徳で教えられ育って来た私にとって、犬や猫などの人にとっての愛玩動物の命は救うのに、人にとって、捕食対象である、牛や豚などの命を食べ、人にとって、不都合を生じさせるイノシシやシカなどの害獣の命を奪うという、その矛盾に苦しめられます。環境汚染や乱獲などの、こっちの都合で数が少なくなれば、守れ守れと大騒ぎです。
改めて文章にしてみると、なんて人本位な! まったくもって自然界の至ってシンプルな命のやり取りのほうが合理的です。
世界は矛盾で満ちています。私の命がここまで保つのに、たくさんの命を犠牲にして来たのでしょう。それが間接的だったとはいえ、私は命を奪っていることに変わりはないのです。人は飢えを満たす為に、畑を守る為に、生きる為に、山を切り開き他の動物の住処を奪い、命を奪って生きています。スーパーで肉や魚を買い、直接手を下していなくとも、それはまぎれもない事実。人は、人以外の命を奪いながらでしか生きていけないのです。私はその事実を受け入れ真摯に向き合った上で、私に繋がった命に感謝をしながら生きていきたい、そう思っています。
私たちの師匠や地元の猟師さんは、狩猟で捕った動物を丁寧に解体し精肉処理をします。捕った日にち、部位を細かく記載し、冷凍保存をして年間を通して余すところなく大事に食べていきます。そして、猟期が終わると狩場に、供養に出かけます。私達猟師は、そうすることで命と向き合っているんです。
私たちは否定的な意見を排除する気も、真っ向から対立し、意見をぶつけ合おうとも考えていません。寄り添って欲しい、なんて厚かましい考えもありません。ただただ、この事実を、そして現状を、そしてその行く未来を知って欲しいと考えているのです。
【私たちが選んだ答え】
私たちは畑を守るための手段として、生きる為の手段として“狩猟”を選びました。そして、命に対して、目をつぶることなく、そらすことなく、しっかりと向き合っていきたい。畑に柵を作り、獣を追い払ったとしても根本的な問題の解決にはなりません。獣は柵を作るお金や時間の少ない、小さな農家の畑を荒らしに行くだけです。
今日は“狩猟”や“猟師”の存在意義、そして命について私の経験を踏まえて綴らせて頂きました。次回は実際に狩猟として働いている方のワークスタイルや、年収モデル、私の感じた猟師のメリット・デメリットについて綴らせて頂こうと思います。この連載を通して私の、私たちの想いが、少しでも誰かに繋がり、そして何かのお役に立てれば幸いです。
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