念仏堀に込められた領民の思い
外川淳の「城の搦め手」第109回
茨城県南部の中居城には、「念仏堀」という名の空堀が今日に伝えられる。
中居城主の中居秀幹は、佐竹氏によって謀殺された南方三十三館の当主の一人であり、酒宴の途中で気配を察して抜け出したものの、捕えられて殺害されてしまう。
当主の秀幹が太田城に招かれたころにも、中居城では佐竹方の進攻に備え、増強工事が継続されていた。
領民たちは、空堀の掘削工事中に秀幹の訃報に接すると、念仏を唱えて死を悼んだ。そのため、中居城の増強のために造成途中だった空堀は念仏堀と称され、その姿を今日に伝えているのだ。
城主と領民の深いつながりを知る感動秘話ではあるが、このエピソードを知ったとき、それまで抱いていた疑問を解く鍵を得られた気がした。
戦国時代の末期、城郭は急激に強化され、土塁や空堀が巨大化される傾向が強まった。
そのためには、土木工事に動員される民衆に対し、相応の負担を強いることになる。
民政に意を注いだ「関東の覇者」北条氏は、システマチックに民衆を築城工事に動員する体制を整えていた。
だが、北条氏のような強力な支配体制がなくとも、地方の中小領主たちは、領民が一体となり、外敵からの侵入を防ぐため、支配基盤には不釣り合いな強力な城郭を築いた。
領主と領民の一体化の過程のなかには、領主個人の人間性に起因する部分があったとしても、基本的背景としては、豊臣秀吉によって築き上げられつつあった中央政権に支配されることへの恐怖感があった。
結果的には、中央政権に支配されることは、民衆にとってマイナスではなかったものの、領民たちは、郷土防衛のため、城の増強工事に尽くしたのだ。
つまり、「戦国時代末期、中小領主の城まで強大になる背景には、中央政権への恐怖心に起因する領主と領民の一体化があった」という一つの仮定にたどりついたのだった。