長宗我部盛親の首塚
「四国王」として興隆を誇った長宗我部氏だったが関ヶ原合戦を機に御家は断絶。盛親は、大坂の陣にその再興を賭けた――。
祝宴では家蔵の茶器などを披露するなど盛親は上機嫌だったという。盛親が胸中に秘めた、たぎるような想いを知る者はいなかった。
みながほろ酔い加減で帰宅すると、盛親はかねての支度のとおり、ひそかに居宅を脱して伏見に向かった。最初は主従数人だけだったが、途中、旧臣たちが続々と合流して、伏見に着いた頃は1000人を超えていたという。盛親主従が威風堂々、大坂に入城したのは慶長19年(1614)10月7日のことだった。
大坂城には10万以上の浪人衆であふれていた。そのなかで、盛親のほか真田信繁(のぶしげ・ 幸村)・毛利勝永(もうりかつなが)を3人衆と呼び、これに明石全登(あかしたけのり)と後藤基次(もとつぐ・又兵衛)を加えて5人衆とも呼んだ。このうち、盛親のみが国持大名で、もっとも地位が高かった。また率いる兵も5000人と破格だった。
冬の陣が始まる。盛親は城南の八丁目口を守ったが、籠城戦に終始したため、ほとんど戦う機会がなく、真田丸で奮戦した信繁に功を譲る形となった。(続く)
文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。