「四国王」として興隆を誇った長宗我部氏だったが関ヶ原合戦を機に御家は断絶。盛親は、大坂の陣にその再興を賭けた――。
翌7日、盛親は天王寺決戦には加わらず、旧臣たちに再起を期して落ち延びることを命じ、大坂を脱出した。豊臣家再興という義に殉じた真田信繁や後藤基次の処世と異なるのは、目的が違ったからである。盛親にとっては豊臣家よりも長宗我部家再興が優先した。そのためには自分が何としても生き残るしかなかったのである。
盛親は2人の家来と共に石清水八幡の近く橋本の葦原のなかに潜んでいた。そこへ蜂須賀家政の使者である長坂三郎左衛門が上京途中、付近に落武者がいると知って探索し、盛親を見つけて捕縛した。
伏見城に連行された盛親は将軍秀忠の尋問を受けた。死を選ばなかった理由を尋ねられると、「我は一手の大将なり。みだりに死を軽んずべきではない。再び人数を催もよおして恥辱をすすぐつもりである」と毅然として答えた。5月15日、盛親は六条河原で斬首された。お家再興はならなかったものの、一子が伊達政宗に仕えて血統を残した。せめてもの供養であろう。(了)
文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。