虐待を生き延びるだけでは十分ではない。
「虐待サバイバー文学」が教えること
生きることは生易しいことではない
■子ども虐待通告数は増加中
2020年2月6日日本経済新聞夕刊によると、全国の警察が摘発した18歳未満の子どもに対する虐待事件は1957件であった。前年比で577件増加した。虐待の疑いがあるとして児童相談所に通告された18歳未満の子どもの数は9万7842人。前年比で1万7590人増えた。
虐待事件の内訳は、暴力による身体的虐待1629件。性的虐待243件。ネグレクトは35件。通告児童数は過去5年間で約2.6倍増加している。
子ども虐待事件が過去最多であること自体は、必ずしも問題ではない。家庭という一種の閉鎖空間で起きることであるので潜在化しやすい子ども虐待問題が、外部の目にさらされることが増えたからこそ、通告数も増えている。それは、よいことなのだ。
家庭の中でならば何をしてもいいとか、家族相手だから何をしてもいいとか、自分の子どもだから何をしてもいいと思う類の動物以下の人々に対して、社会の目があるということを知らしめることは、ある程度有効な抑止にはなる。
あとは、子どもたちに、基礎知識として、「家庭の外にも生きていける場所はある。自分の身の安全を考えれば、三食摂取できて、学校にも通うことができる養護施設というものがある」ということを何度も伝えることだ。
もちろん、人間の世の中だから、養護施設の職員の中にさえ不埒な人間がいる。ただでさえ苦労してきた子どもに性的虐待をするような類の鬼畜もいる。人間の中には鬼畜がかなり混じっていることも、子どもたちに周知徹底させておくことが必要だろう。
■「虐待サバイバー」文学というジャンル
エッセイ形式であれ、小説形式であれ、漫画形式であれ、ルポルタージュ形式であれ、今の日本には「虐待サバイバー文学」というものが形成されつつある。虐待を生き抜いた後を描くのが「虐待サバイバー文学」である。
虐待から、せっかく生き残ったのに、それから先も大変である、それほどに子ども時代に受けた傷の後遺症は続くということを書いたものが「虐待サバイバー文学」だ。そこが、従来の「虐待文学」とは違う。
「虐待文学」は、文学の中でも古典的ジャンルである。児童文学には子ども虐待文学が多い。『家なき子』も『小公女』も『母を訪ねて三千里』も『フランダースの犬』も立派な子ども虐待文学だ。
なかでも、ジュール・ルナールの『にんじん』(窪田般彌訳、角川文庫、2000)などは極めつけだ。赤毛でそばかすだらけなので「にんじん」と呼ばれる主人公の母親は、3人の子どもの末っ子の「にんじん」を憎み、猟の獲物の鳥の首を絞める役割をいつも末っ子に強いる。ついでに、「にんじん」がおねしょした尿をスープに入れて彼に飲ませる。岸田国土訳の岩波文庫版ならば、Kindleで無料で読めます。
女性虐待ならば、これはもう文学一般のテーマである。性的虐待はポルノ小説や犯罪小説の重要なテーマだ。文学が世界の鏡であるとしたら、かくも、人間世界は虐待に満ち満ちているのだ。
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『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』
著者/藤森かよこ
死ぬ瞬間に、あなたが自分の人生を
肯定できるかどうかが問題だ!
学校では絶対に教えてくれなかった!
元祖リバータリアンである
アイン・ランド研究の第一人者が放つ
本音の「女のサバイバル術」
ジェーン・スーさんが警告コメント!!
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これは警告文です。本作はハイコンテクストで、読み手には相当のリテラシーが求められます。自信のない方は、ここで回れ右を。「馬鹿」は197回、「ブス」は154回、「貧乏」は129回出てきます。打たれ弱い人も回れ右。書かれているのは絶対の真実ではなく、著者の信条です。区別がつかない人も回れ右。世界がどう見えたら頑張れるかを、藤森さんがとことん考えた末の、愛にあふれたサバイバル術。自己憐憫に唾棄したい人向け。
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あなたは「彼ら」に関係なく幸福でいることだ。権力も地位もカネも何もないのに、幸福でいるってことだ。平気で堂々と、幸福でいるってことだ。世界を、人々を、社会を、「彼ら」を無駄に無意味に恐れず、憎まず、そんなのどーでもいいと思うような晴れ晴れとした人生を生きることだ。「彼ら」が繰り出す現象を眺めつつ、その現象の奥にある真実について考えつつ、その現象に浸食されない自分を創り生き切ることだ。
中年になったあなたは、それぐらいの責任感を社会に持とう。もう、大人なんだから。 社会があれしてくれない、これしてくれない、他人が自分の都合よく動かないとギャア ギャア騒ぐのは、いくら馬鹿なあなたでも三七歳までだ。(本文中より抜粋)