就職氷河期世代はブラック企業でパワハラで苦しみ、いま他責自責の念に駆られている【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第13回
このように、他罰性や自罰性がそれぞれに聖書の時代にも現代にもみられるというだけでなく、他罰性と自罰性とがどちらも併存しているということ自体が、やはり聖書の時代だけでなく非常に現代を表してもいる。なぜなら、高度経済成長期やバブル期をリアルタイムで知っている人々を憎み、自分たちがそのツケを払わされていると感じている、その同じ人たちが同時に、今の自分を情けなく思い、自分自身を呪い、「死にたい」とさえ呟いている姿が、きわめてツイッター的でもあるからだ。
苦しい状況に陥って、しかも、なぜそうなったのかの明確な理由も分からず、今後、事態が改善するという見通しも立たない。原因すなわち過去についても、見通しすなわち未来についても、明確な言葉にできない。言葉にしようとしても、あいまいなことしか言えない。それはときに、耐え難いほどつらいことである。だから「こうなったのは上の世代のせいだ(先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く)」と言いたくもなる。しかも同時に「こうなったのは自分のせいだ(我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか)」と自分を責めもする。
わたしたちは誰一人として世界の外にも、時間の流れの外にも出ることはできない。この事実を考えるとき、わたしは『ベルリン 天使の詩』という1987年の映画を思い出す。天使は永遠の場所に生きている。つまり、天使は世界の外、時間の外に存在している。天使が人間のすぐそばにいても、誰も天使に気がつかない。あるとき、天使はビルから飛び降りようとする人のそばにいた。天使は超越的存在として、おだやかに、すべてを理解しつつ、その人の絶望に耳を傾ける。
だがその人はビルから飛び降りてしまう。振り返った天使は声なき声で絶叫する。「人間と出遭いたい、関わりたい」と切望した天使は、世界のただなか、有限な時間の流れに生きることを決意する。
わたしたちは歴史を学んで、知ることはできるだろう。だが、過去をどれほど学んで知見を得たとしても──もちろんそれは人生をゆたかにするが──わたしたちは歴史の外に出られるわけではない。わたしたちもまた、歴史の、限られた時間と場所の渦中に生きることしかできない。そして、わたしたちは生きている限り、引っ掻きまわされ続けるのである。わたしたちが死んだあとにしか答えがでないこと、わたしたちが死んだあとにも永久に答えがでないことに。
あのとき、こうしておけばよかったとか、ああすべきではなかったと、わたしに後悔を打ち明ける人がいる。しかしわたしは思うのだ。「人生の分かれ道」というイメージは、後づけの物語なのかもしれないということを。
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