名僧に学ぶ迷わない心のヒント
仏教界の巨星たちの知られざる人間くささ
朝廷の弾圧を跳ね返した行基の絆の力
行基(ぎょうき、668~749)は河内国大鳥郡(大阪府堺市)に生まれた。15歳で出家し法相宗(ほっそうしゅう)などを学ぶ傍ら、山林で修行を積んだという。
養老元年(717)、僧尼の風紀が乱れていることを指弾する詔が発せられたが、この中で行基とその弟子たちの活動が批判されている。平城京建設に伴って増えた浮浪者などを組織し、民間布教の傍ら橋や道路などを造る活動がカルト的と受け取られたのである。
朝廷はその後も禁令を出したが、人々に居場所を与え生活を安定させた行基と民衆との絆は深まっていった。
ついには朝廷もその組織力を認め、行基と教団を大仏建立の資金集めに利用することにしたのである。そして、天平17年(745)行基は日本初の大僧正(官僧の最高位)に任じられた。
行基の活動は、結集した民衆との絆の力で歴史を変えた、日本で初めての出来事であった。
禅・密教・茶の世界を伝えた栄西のバランス力
備中国(岡山県)生まれた日本臨済宗開祖・栄西(えいさい、1141~1215)。比叡山で密教を学び伯耆大山(鳥取県)にも遊学して密教を修めた。28歳のとき、宋に渡り天台教学などを学んだ。
栄西というと禅僧のイメージが強いが、同時代の人には密教の高僧として認識されていた。実際、葉上流という流派の祖であり、後鳥羽天皇の命で雨乞いの祈祷も行なっている。
密教の権威となった後も、栄西はその地位にこだわらなかった。47歳で再び宋に渡り、今度は禅を学んでいる。
こうした栄西のとらわれなさは、人脈の広さにも表われている。幕府の後援で建仁2年(1202)に京に建てた建仁寺には、華厳宗の明恵など旧仏教の名僧や庶民なども出入りしていた。『喫茶養生記』のような本を著わせたのも、栄西の幅広い興味のゆえだろう。これは喫茶趣味の書であり、医学書でもあり、密教書でもある。
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