近藤勇はいかにして「新選組」に入隊したか?
近藤勇の苛烈なる生涯 第1回
愚直なまでに己の信念を貫き、
動乱の幕末を誰よりも武士らしく生き抜いた近藤勇。
壬生狼と恐れられた新選組局長としての顔と、
その裏に隠された素顔に迫る!
平和な多摩の里から 動乱の京都へ
東京の多摩地域は徳川家康が特別な愛情を持った所だ。天正18年(1590)に江戸入りした家康は幕府をひらくと同時に、この地域に「八王子千人同心(千人隊)」を創設した。普段は農耕に従事し、一朝事ある時には武器をもって起ちあがる「屯田兵」だ。
三河国(愛知県東部)に生まれた家康は土を愛し、農村共同体の協同精神を重んじた。したがってこの地域は天領(幕府直轄地)である。
近藤勇は多摩の一角、調布上石原の豪農宮川家に生まれた。三男で幼名は勝太、天保5年(1834)生まれ。15歳の時に天然理心流の剣法を教える近藤周助の試衛館(江戸牛込柳町)に入門し、やがて周助の養子となって、勇昌宜と改名した。
当時江戸には斉藤弥九郎の練兵館、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館という、いわゆる「江戸の三大道場」があり、試衛館は三流道場だった。しかし他の道場の剣法が形を重んずる様式化が進んでいたのにくらべると、試衛館は実戦を重んずる実用剣法だった。
幕末の開国後、日本の輸出品の目玉は茶と生糸になった。多摩地域も八王子を中心として有力な養蚕地帯だった。シルクロード(現在の国道16号線)を利用する地域は、突然富裕地域になった。これを狙って盗賊が襲いはじめた。が、幕府警察力は役に立たない。農民たちは自分の生命と財産は自分で守る、という自衛状態に追いこまれた。
そこで選んだのが試衛館の剣法である。道場主の近藤をはじめ、土方歳三・沖田総司・井上源三郎らはみんな多摩の出身だ。なじみが深い。農民たちは近藤に、多摩への出張指導(出稽古)をたのんだ。近藤は快諾し、自身や門人が指導に当たった。
開国のために一部の富裕層は別にして、多くの日本人は物価高で生活苦におそわれた。多摩でも養蚕関係をのぞいておなじ現象が起こった。出稽古をつづけながら近藤はこの事実に対きあった。道場で同志たちと議論を重ね、「政治の根幹に迫ろう」「それにはいま政局の中心になった京都に行こう」と合意した。
たまたま現将軍徳川家茂(14代)が、妻の和宮降稼時の約束である「攘夷をいつおこなうか」という期限奉答のために、京都にいくことになった。将軍とその供は東海道をいくが、不測の事態にそなえて、中山道に特別警護隊(浪士組)が派遣されることになり、隊士が公募された。多くの浪人が応募した。
近藤は門人と相談の結果、これに応ずることにした。もちろん生活にくるしむ民衆のため、ということもあるが、しかし戦国時代の青年たちが抱いた“一国一城の主”をめざす向上の夢が、近藤たちになかったとはいえない。やはりいつまでも三流道場の経営者の座には甘んじたくなかった。心ある門人たちも同じだった。