「なぜ学級崩壊は止まらないのか?」今でも信じられないある出来事とは【西岡正樹】
「学校の当たり前」を取り戻すために・・・身体を通して伝えること
「学校の当たり前をやめる」。そんなラディカルな教育改革を牽引する主張が、昨今教育現場で蔓延っている。「宿題廃止」「定期テスト廃止」「固定担任制廃止」等々。従来から学校教育で「当たり前」とされてきた慣例や教育システムそのものを失くしてしまおう、という主張だ。それに強く異を唱えるのが、小学校教師歴40年、神奈川県茅ヶ崎在住の生涯現役教師・西岡正樹氏。「学校教育では『学校の当たり前』を今こそ取り戻すべきだ」と語る。その一方で、「家庭教育での当たり前も同じく失われていないか?」「子どもは大人の鏡。大人が間違った行動をしていれば、子どもも間違った行動をするように育つ」と強く警鐘を鳴らす。いま学校現場では何が起こっているのか? 「学級(学校)崩壊」と言われて久しいが、この現象、もはや教師だけでは止められないだろう。公私の区別をつける意識がなくなった日本人社会全体に及ぶ、実に根の深い問題が横たわっていることを西岡正樹氏は指摘する。
私は今年の3月まで茅ケ崎市内の公立小学校の担任をしていた。特に、ここ25年、気になっていたことがある。それは、今まで当たり前の事だったのに、いつの間にかそれは当たり前ではなくなり、さらに、それがクラスを創るために越えなければならない課題になっている事がある、ということだ。
そのうちの一つが、「教室はみんなで学ぶところだ」をクラスの子どもたちに定着させること。
このように書くとだいたい40歳以上の方々は、「えっ、そんなこと?」と思うかもしれない。しかし、近年、「教室はみんなで学ぶところ」が「当たり前」ではなくなっていることを理解していただきたい。
何故、そうなってしまったのか、その理由の一つとして考えられるのが、保護者が子どもに対して行う「言葉がけ」である。「教室はみんなで学ぶところ」が「当たり前」だと思っている方々は、自分が子どもの時のことを思い出してもらいたい。小学校に行く前に親から
「先生の話をちゃんと聞くんですよ」「他の人に迷惑かけちゃだめだよ」
と言われた記憶があるのではないだろうか。
親の口から、そのような語りがけがなくなり、徐々に、子どもたち一人ひとりの中に「みんな意識」(パブリック感)が失われていった。いわゆる、「自分意識」(プライベート感)と「みんな意識」(パブリック感)の境目がなくなってきたのだ。
「学校とはどういうところなのか」を子どもたちはまだわからないうちから、「先生の話を聞くんだよ」「みんなに迷惑をかけちゃだめだよ」と親から言われ続けることで、子どもたちは自然と親の忠告の通りにじつは行動していたのだ。ところがそれがなくなってきてしまった。
すると、「学校はみんなで学ぶところ」という教師の言葉がけだけでは子どもたちをしつけることができなくなった教室では、自分の気持ちのまま動いてしまう子が多くなる。「話を聞きたくなかったら聞かない」子どもが、授業中でも平気で立ち歩くようになる。それが今の学校現場である。しかし、「親の言葉がけ」はあくまでも一因であり、すべての理由がそこにある訳ではないが、大きな要因であると私は思っている。
三浦雅士氏の『考える身体』には次のように書かれている。
「ほんとうのことを言ってしまえば、言語教育は知育の問題である以上に体育の問題なのである。幼児は言語を習得していく段階で、全く同じように表情をも習得してゆく。仕草や身振りをも獲得してゆく。言葉と身体は密接にかかわっているのである。」
このことは、幼児期の子どもだけではない。就学時の子どもにとっても同じである。「親が自分の思いや考えを表情、仕草、身振りを通して伝えることは、子どもの身体の中に伝わっていく」。それは、子どもの様子を見ていても理解できる。「お母さんも同じこと言ってました」「お父さんも『一生懸命やらないと本当の楽しさは分からない』って言ってました」などなど、子どもたちは、親の言うことをしっかり受け止めてやろうとする言葉が教室の中でも多く聞こえるのだ。