東アジアで完結していた古代・中世の日本人にとっての世界
日本人は世界をいかにみてきたか 第1回
『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)のスペシャル講師としてもおなじみ歴史作家の河合敦先生に話を伺った。
第1回は古代・中世の日本人の世界認識がどうだったのかについて探っていく。
縄文・弥生など原始の日本人が「世界をどうみてきたか」という事実は、記録が存在しないだけにその解明は難しい。
ただ、壱岐や対馬からは朝鮮半島が遠望できるので、少なくても九州一帯の縄文人は、海のかなたにある大陸の存在を認識し、ひょっとしたら舟で朝鮮や中国を往復していた者もいたかもしれない。
「くに」(小国)といわれる政治勢力が分立するようになった弥生時代中期、小国の王たちは、文明国である中国に臣従することで自国の立場を有利にできると考え、盛んに使いを送った。結果、漢の皇帝は奴国の王に「漢委奴国王」の金印を、魏の皇帝は邪馬台国の女王卑弥呼に「親魏倭王」の金印を与えたが、こうした賜物を誇示して彼らは己の威勢を誇示したのだろう。
渡海するのは役人か僧侶
四世紀、大和政権が成立する。大和政権は全国平定を進めつつ、鉄資源などを求めて朝鮮半島南部へ進出し、半島北部の高句麗と戦うようになった。争いを有利に進めるため、大和政権は五世紀になると中国南朝(宋)に臣従して朝鮮南部を支配する正当性を獲得しようとする。この時期、朝鮮での動乱もあって多くの渡来人が来日、結果、日本の豪族たちの国際理解が進んだものと思われる。
七世紀初めの推古朝の時代、蘇我馬子や厩戸皇子は遣隋使を派遣する。しかし、いままでのように君臣関係を結ぶのではなく、隋に対等外交を仕掛けたのである。隋の煬帝は無礼な日本の国書に怒りながらも答礼使・裴世清を使わした。高句麗征伐を計画していたこともあり、日本との関係悪化を恐れたのだという。
隋が滅んだ後も、朝廷は遣唐使を派遣して最新の技術や文化を導入しつづけた。面白いのは、遣唐使は朝貢使であったことである。にもかかわらず、その内情を貴族たちに隠し対等外交に見せかけていたのだ。ダブルスタンダード外交である。それが可能だったのは、海外の情報がほとんど入ってこなかったからだろう。
当時、海外に行けるのはごく少数の選抜者に限られた。ただ、入唐することは、役人ならば栄達、僧侶なら箔を付ける手段だったので、渡海希望者は後を絶たなかった。唐に渡った人物として吉備真備、最澄、空海、円仁、円珍、山上憶良などはよく知られている。
中でも真備は、地方豪族出身の下級役人・下道国勝の子として生まれたが、儒学に最新の学問知識と諸書や楽器、武器などを大量に持ち帰ったことで、帰国するとすぐに正六位上に叙され、大学寮の大学助に抜擢された。真備は囲碁のみならず、カタカナ、陰陽道、兵法なども伝えたとされ、橘諸兄政権のブレーンとなり、最後は右大臣にまで出世した。
やがて遣唐使が絶え、中国との正式な国交はなくなったが、貴族たちはこれまでの経緯から中国に対するあこがれが強く、唐物と呼ばれた中国製品や中国の最新の文化や技術を求めたので、多くの商人や僧侶が宋(中国)へ渡った。
また宋の商人も博多に大勢やって来て品物(唐物)を売りさばいた。平安末期の平清盛は宋船を兵庫まで引き入れ、大量の宋銭を輸入して流通させた。以後、宋銭は国内に急激に流通し、貨幣経済が浸透していくことになったのである。
鎌倉時代後期、宋を追いやった元(モンゴル帝国)のフビライが、日本に対して臣従を求めてきた。
これより前、日蓮が幕府に対し、念仏や禅などを重んじていると外国からの侵略を招くと警告していた。不埒な言動だとして日蓮は弾圧を受けるが、おそらく僧侶間の情報交換によって、元の動きが日蓮の耳に入ったのかもしれない。
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