「安倍暗殺と統一教会」で露わになった「日本人の特殊な宗教理解」とは【中田考】
ハサン中田考が語る「安倍暗殺と統一教会」《特別寄稿:前編》
■明治政府から弾圧されても屈しなかった天理教教祖・中山みき
幕末に世界一列を助けるために降臨した神から天啓を受けたと称して貧民救済に家財を蕩尽し、国家神道を拒否したことで明治政府から弾圧されても屈せずに、信奉者たちから天理教の教祖に担ぎ上げられた中山みき(1886年没)もそうです。中山みきは巫女タイプでしたが、より理性的な学究肌の宗教者もいました。知行合一の陽明学を修め、大坂町奉行組与力としてキリシタンを摘発、破戒僧を処断し、隠居後は陽明学を講ずる私塾を開き門人を育てた大塩平八郎が、天保の大飢饉に際して貧民を救うために私財を投じただけでは飽き足らず、餓死者を放置した大坂町奉行所の悪政を糾すために門人たちを集めて武装蜂起(大塩の乱:1837年)したのも宗教に基づく世直し運動と言うことができるでしょう。
しかし江戸時代の最大の宗教に基づく世直し運動は、水戸学、国学などに基づく尊王攘夷思想に基づく王政復古を目指す倒幕運動でした。倒幕に成功した明治政府は維新当初は、古代の神祇官を復活させ、神仏分離、廃仏毀釈を行い、キリシタン禁令を踏襲しました。しかしそれによって信教の自由を認めないような国は近代国家ではないとの欧米列強から激しい批判を被ることになりました。
そこでキリスト教の解禁を迫られた明治政府は、不平等条約を撤廃し西欧列強の仲間入りするために、1900年に神道を内務省の神社局の管轄とし、文部省の宗教局(1913年に内務省から文部省に移転)が管轄する仏教、キリスト教などの他の宗教とは区別する「神道非宗教論」を採用し、元始祭、神嘗祭、新嘗祭などの大祭は天皇が親祭することになりました。倒幕運動に復古神道に由来する水戸学、国学の尊王攘夷のスローガンが唱えられましたが、実際には幕府を倒した明治政府は脱亜入欧の西欧化による近代化を目指し、王政復古とは名ばかりで、天皇が「現人神」の巫王として親政を行ったわけではなく、親祭の内実は祭礼の執行に過ぎませんでした。
大日本帝國の国家神道において官国幣社の神職(神主)は国家公務員になりましたが、教導職は廃止され、神職が国民教育を担うことはありませんでした。また内閣には神祇省は設けられず神職が内閣の大臣になることもなく、御前会議にも神職の席はありませんでした。それだけではありません。大日本帝國には歴史に名を残すような影響力のある一人の神職の思想家もイデオローグもいませんでした。大日本帝國のイデオロギーは脱亜入欧、殖産興業、富国強兵により西欧列強の仲間入りし帝国主義戦争に勝ち抜いて「生存圏(Lebensraum) = 大東亜共栄圏」の植民地支配を拡大することに過ぎず、神道に基づく「八紘一宇」は内容のない空虚なスローガンでしかありませんでした。
結局のところ、明治維新も徳川時代に成立した政治優位の多宗教共存体制を大きく変わえることはなかったと言えます。幕末には討幕派、佐幕派の双方に様々な国学、復古神道にインスピレーションを得た世直し運動が現れました。後に明治の元勲となる伊藤博文、山縣有朋などを育てた吉田松陰は尊王攘夷を実践するために老中暗殺の陰謀に加担したため安政の大獄に連座し処刑されました(1859年)。しかし結局のところその松陰の門下生たちも、維新に成功すると、尊王攘夷の理念をかなぐり捨てて、西欧を模した近代国家を作り上げ富国強兵政策によって欧米列強の仲間入りし植民地支配を拡大していきました。
明治維新以降も日本人の心性の中では、政治優位の多宗教共存体制が続き、政治家を含めてというより、政治家を筆頭とした「普通の人たち」は、諸宗教はただ祭礼だけには世間様のお付き合いとして参加はしてもそれらの教義は綺麗ごとの建前として適当に聞き流し、本音ではこの世の行動については世間様の空気を読んで場当たり的に善悪の判断をした上でそこで許される範囲の「利」を求めて日常に埋没して「柔軟に」生きてきたのです。
このような文化の中では、宗教を実存的、主体的に生きようとする者は「空気を読まない(KYの)」異物として、みんなで「臭い物に蓋をする」、あるいは「腫れ物に触る」ように宗教の話題を避けてできるだけ近寄らず見て見ないふりをして距離をおかれ、世間様の我慢の限界を超えて目障りになるか、体制転覆を公然と企て権力者から危険とみなされるほどになると、有無を言わさず「片づけられ」てしまうことになります。
つまり宗教は世間様の利害調整のための方便、毒にも薬にもならない潤滑油のようなものとみなされ、そうした方便でしかない宗教の教義を真面目に信じ込んでこの世の利益を度外視するような教えを説く「純粋な人」は、虚構でしかない宗教を現実にしようと考える狂人(狂信者)であることになるわけです。そしてそのような教えを説く者に信奉者が集まるようになれば、それは狂人とその言葉を妄信する愚か者の集団、あるいは言葉巧みに愚か者たちを口車に乗せて洗脳しその精神と行動を支配し金を巻き上げる詐欺師の教祖と幹部たちがそれに騙された被害者を囲い込むための結社とみなされることになります。
こうした「徳川の平和」の中で培われ、現在に至るまで基本的に変わらない日本人の政治優位の多宗教共存体制の心性の詳しいメカニズムを知りたい方は、イザヤ・ベンダサン(山本七平)『日本教について』(1972年)、山本七平『空気の研究』(1977年)を是非お読みください。
ここまで書いて、やっと安倍暗殺事件の話に戻れます。
まず明治時代の「神道非宗教論」で既に問題になっていた通り、キリスト教と仏教と比べると神道は異質です。またここまで儒教を「宗教」の一つとして論じてきましたが、明治以降は儒者の伝統は残り日本軍国主義のイデオロギーに儒教は大きな影響を与え続けましたが、儒教は宗教とはみなされなくなります。宗教、学問、イデオロギーの境界は曖昧です。古学は宗教、歴史学、イデオロギーのアマルガムです。
現在に置き換えれば左翼のマルクス経済学、共産党、新左翼のセクト、右翼団体などにあたります。これらと宗教の境界もまた曖昧です。また神道や仏教は個人が主体的に選び、実存的に信を得るものではなく、家と共同体のものであると言いました。実は個人の選択による入信の西欧の宗教観のモデルとなるキリスト教でもイエスと弟子たちの第一世代はそうであっても次の世代にとっては宗教はその中に生まれ落ちたものでした。
特にローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教入信と313年のミラノ勅令によるキリスト教公認以降は、西欧はキリスト教社会になり、事実上はキリスト教も神道のような共同体の宗教、一種の民族宗教になります。宗教社会学でいうところの「教会(Kirche/church)」とはそのような全体社会を構成する信徒共同体を指します。二世信者は宗教に普遍的な問題です。