反面教師にしたい、400年前の陽気な酒飲み爺さん
季節と時節でつづる戦国おりおり 第230回
ありがたい事に、30年以上前の学生時代の友人たちと今でも交流があり、しばしば飲み会などで顔を合わせます。それも、同じ大学だけでなく他大学OB・OGたちとも。
しかしあれですね、この歳になりますと、集まれば話題は自然とカラダ関係に。やれ腰が痛い、やれ検査でひっかかった、○○は体に良いらしい、✕✕は食べちゃダメ、などなど毎回そっち系の話題でもちきりとなります。やはり皆さん気にしてらっしゃるんですなぁ。
そんな訳で(どんな訳だ)今回の話題もカラダがらみ。今から437年前の天正7年3月2日(現在の暦で1579年3月28日)、公家の山科言継(やましな・ときつぐ)が死去。享年数え73歳。
今川義元、織田信秀・信長父子、北畠具教、三好長慶、足利義栄・足利義昭と戦国時代の立役者たちと面会を重ね、特に信長と徳川家康からは二万疋という銭を朝廷に献上させた、名うてのネゴシエイター、言継。その力量は朝廷からも認められ、永禄12年(1589)には山科家として初となる大納言に昇進している。
家の誉れに歓喜した言継は
「盃これを出(いだ)して各(おのおの)にこれを勧む」
と日記に書いている。皆に酒を勧め、自身もさぞ痛飲した事だろう。
そもそも言継は大の酒好きだったらしく、例えば弘治2年(1556)から翌年にかけて5カ月あまり駿河に下向滞在した折りは、日記に酒に接した事を記していない日はわずか28日。この日もあるいは文章に残さなかっただけで実際は飲酒していたかも知れないと考えると、1週間に1日程度休肝日が有ったかどうかという計算になる。
それ以外の日は常に酒をたしなみ、時には
「予、沈酔し、前後を忘れ平臥しおわんぬ」
「予、沈酔し平臥」
「正体なく沈酔」
と、泥酔しひっくり返ってしまう事もある言継だった。そんな時も、翌日にはケロッとまた飲酒しているから、根っから健康な呑兵衛だったのだろう。その丈夫さが、諸国への下向や要人との歓談を可能にし、言継人脈ともいうべきネットワーク作りに役立ったのだ。
しかし、そんな言継も、冒頭の様に最期の時を迎えた。この日、禁中小御所で仏教の法談聴講に相伴、息子の薄諸光邸で夕食中に胸の痛みを訴え、昏倒。そのまま酉刻(夕方6時前後)に息を引き取る。痛みを訴えているということは糖尿病患者によく見られる無痛性の心筋梗塞ではなかったのだが、無類の酒好きだった言継の事、やはり糖尿病が進行して心不全に至ったのではないだろうか。
もちろん加齢劣化による動脈硬化が原因とも考えられるが、4世紀以上前の陽気な酒飲み爺さんを良い見本と考えて、我々は過度な飲酒を控える事と致しましょう。