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ノーベル化学賞 (2022) のベルトッツィ教授 その誕生の陰に名もなき伝説の名物数学教師がいた【渡辺由佳里】

キャロライン・ベルトッツィ教授

 

 

■多くの生徒を情熱的な数学ファンにした伝説の教師

 

 学校の数学教育のシステムを改革するいっぽうで、モスカ先生は押し付けられた数学チームの立て直しに取り組んだ。問題は学校の数学チームだけではなかった。数学競技のマサチューセッツ州東部リーグには参加校がほとんどなく、「これでは生徒がやる気を起こさなくて当然だ」と思った。モスカ先生は子供の頃から野球とレッドソックスが好きなのだが、強い競争相手がいるからこそ野球は楽しいと知っていた。「数学を野球みたいに誰でも参加できて、格好が良く、生徒に人気があるスポーツにしたい」という意欲を持った彼は、強いライバルも作ろうと思った。そこで、東部リーグを改革するためにリーグ委員長に立候補し、就任してからはダイヤモンド中学校だけでなく他の学校が数学チームを作るのを手助けした。経験がない他校の教師を指導してなるべく多くの学校が参加できるように援助し、9年のうちに参加校を51校にまで増やした。こうして、ダイヤモンド中学だけでなく東部リーグに属する学校の数学チーム全部が全米の強豪になっていった。

 全米規模の数学競技であるマスカウンンツが1983年に開始した年、モスカ先生はダイヤモンド中学でその競技を取り入れた。最初は彼が教えている8年生のクラスだけで、カウントダウン・ラウンドもそのクラスだけの小規模なものだった。それでもクラスはゲームショー形式のコンテストの興奮に包まれて大騒ぎになる。そのうちに他の数学教師たちも「面白そうなことをやっている」と興味を抱くようになり、8年生のクラス全員が参加するようになった。次には7年生と6年生に広がって現在の全校レベルの恒例行事に進化した。

 全校レベルでのマスカウンツの参加者が増え、ダイヤモンド中学の競技で勝利した代表者は州大会の上位をしめるようになり、全国大会の常連となった。そして、1990年代にはモスカ先生が率いるマサチューセッツ州チームが全国大会制覇を果たした。このときに全国大会で個人優勝したのはモスカ先生の数学クラスの教え子だった。

 モスカ先生は「チームワーク」を強く信じている。どんなに優れた投手がいても、チームメイトが点を取ってくれなければ勝てない。「ひとりの力だけで何かを達成するのは無理です」とモスカ先生は強調した。彼が校長にかけあって雇ってもらうことに成功した優秀な数学教師のひとりがロシアから移住してきた女性数学教師のタチアナ・フィンケルスタイン先生だった。

 フィンケルスタイン先生はロシア訛(なま)りだけでなく、個性も強烈だ。私の取材でも「親と対応するのは好きじゃない。子どもは好き」と平然と語る人物だ。他の学校が雇用を敬遠したフィンケルスタイン先生は、ダイヤモンド中学で多くの生徒を情熱的な数学ファンにした伝説の教師になった。

 フィンケルスタイン先生は保護者への説明会で一方的にこう語る。

「いつも尋ねられることですが、私は教科書を使いません。なぜかというと、教科書はひどいものだからです。私は使いませんが教科書はお渡しします。見たい人は勝手に見てください。役には立たないと思いますけれどね。いろんなことを子どもに詰め込んで、そのときだけできても意味はありません。子どもたちはよく、『あ、それ知ってる、知ってる』と言います。そこで私は『じゃ、説明して』と要求します。子どもたちは『見たことはあるけれど、忘れた』と言います。一回習っても、それは『聞いたことがある』とか『見たことがある』程度なんです。知ってることにはならない」

「教科書を使わない」という発言に表情を曇らせる親を見ても彼女はひるまない。「教科書がないのにちゃんとカリキュラムを終えられるのかどうか心配する親がいますけれど、大丈夫です。教科書なんかなくても、生徒はちゃんと必要なことは全部学びます」

 授業も独自だ。いきなり「もし猫を見たら、あなたたちは猫だとわかるかね?」といったことをたずねる。

 6年生はまだ12歳前後なので子どもである。裏がありそうだと思いつつもいっせいに「もちろんわかるよ」、「見たらわかるに決まってんじゃない」と答える。

 思惑どおりの答えにフィンケルスタインはにやりと笑って「でも、なぜ猫だとわかる?」と尋ねる。犬にも尖った耳や長いしっぽがあるものもあるし、ネズミにもヒゲがある。猫とはどういう動物のことを言うのか。目の前の動物がそうだと断定するためには、どんな証拠が必要なのか。

 しんとした生徒たちを見渡して、彼女はロシア語なまりの強い英語で諭す。

「他人が『あれは猫だ』と言っても、そのまま信じちゃいかんよ」

 教科書を使わないので親も子も気づかないが、私の娘のノートや宿題を見たところ、6年生の9月から5月までのたった9ヶ月で素因数分解や連立方程式、不等式だけでなく、円の性質や確率、平方根、ピタゴラスの定理と証明、相似図形など日本の中学3年間で教わることをほとんど学んでいる。一日じっくりひとつの教科を学ぶ「プロジェクトデー」ではオイラー閉路やハミルトン閉路を子どもたちに自由に試みさせる。

 私の娘は中学の推薦で13歳のときに大学入学選考に使われる共通試験のSATを高校最終学年の受験生に混じって受けたことがある(SATの練習のようなPSATではない)。試験のための勉強をまったくしていなかったにもかかわらず、数学で4問ケアレスミスをしただけで残りは全問正解だった。すべてフィンケルスタイン先生の授業で学んだ知識で十分答えられる問題だったということで、「全然難しくなかったよ」と言っていた。

 

■見えない場所で歴史を変えた英雄たち

 

 モスカ先生は、レキシントン高校の数学チームを率いるサル・ラーマン先生とも初期から同士として助け合った。

 ラーマン先生も、フィンケルスタイン先生のようにやや風変わりな名物教師だ。数学好きの生徒たちから異様に尊敬されているところも、移民だというところも共通している。

 ラーマン先生はアメリカの大学で学ぶために1960年代後半に生まれ故郷のイラクを後にした。ニューヨークに着いた彼は、長距離バスでオレゴン州立大学に向かった。チケットを買った後で手元に残ったのはたった6ドル50セント。大学に到着するまでの6日間に彼が口にしたのは停車場で買ったリンゴ数個とポップコーン1袋だけだった。大学に着いた彼が授業料と生活費を稼ぐために見つけたのが木材伐採人のアルバイトだった。腕を切断する者や、生命を失う者がいるほど危険な仕事だったのだが、だからこそ収入も良かった。大学に通いながら、ときには1日12時間半、週に7日間働いたという。メディカルスクール(医学大学院)進学過程だったのだが、メディカルスクールの学費を調達するのは不可能だと悟り、数学専攻に切り替えた。

 イラクでは、ボクサー、治安判事、公証人を務め、アメリカでは仕立屋、調理師、ビール工場の機械工、木材伐採人、トラック運転手、米国陸軍の統計専門家と生活のために何でもこなした。私立高校の数学教師と高校中退者を集めた学校の教師を務めた後でレキシントン公立高校の数学教師になったときには夢のような仕事だと思った。

 多くの数学教師は、方程式を教えて何度も繰り返し練習問題をさせるが、ラーマン先生はそれをしない。生徒本人が理論を理解して自分でそれを発展させていかなければならないと信じているので学生たちに理論に基づいた実験を薦め、1年に2度、それぞれの学生に自分でテーマを選んで論文を書かせる。

「たとえばこの問題ですが……」とラーマン先生はホワイトボードに書かれた私には意味不明の図を指さした。「私の生徒はすぐに理解することができますが、繰り返しで暗記する方法しか習っていない生徒は理解できません」と言う。中学校でフィンケルスタインの授業を受けた生徒はすぐに理解できるタイプだが、数学がさほど得意ではない生徒は「授業がまったくわからない」とか「教えてもらっていないことがテストに出てくる」と私に不満を訴えた。そういった生徒を教えるのも好きだとラーマン先生は言い、愚痴を言っている生徒のほうも「イラクにはすばらしい頭脳の努力家がたくさんいますが、中央政府に知り合いがいなかったら、何者になることもできません。決して報われないのです。けれどもアメリカでは誠意をこめて一生懸命努力すれば報われます」と語るラーマン先生を人間として尊敬しているようだった。

 ラーマン先生はこの高校ではちょっとした有名人でもあった。彼が顧問をしているレキシントン高校数学チームは、2004年の取材時点ですでに数学オリンピック国際大会の金メダリストと銀メダリストを出し、全米数学オリンピックの予選通過者の累積数において普通高校としては全米トップだった。「全米数学協会」が全米でもっとも優れた数学教師に与える「エディス・メイ・スリッフ(Edyth May Sliffe Awards)」という賞は、1人の人物に1回しか与えないことになっているのに、ラーマン先生はなぜか3回も受賞していた。また、2000年にはホワイトハウスでクリントン大統領から大統領奨学生基金の「卓越した教師賞」を受け取ったこともある。レキシントン高校在学中に「大統領奨学生賞」を受賞したユンジョン・リュウが、「私にもっとも影響を与えた教師」として推薦したからだった。

 数学教育においてそれほど名前が知られているのに、ラーマン先生は「生徒が勝手に自分で自分を教えているんですよ。私の指導力ではありません」、「私は、みんながやりやすいように、料理を作ってやったりして、楽しく学べる雰囲気をつくってやるだけです」と軽くかわす。でも、数学チームのキャプテンたちは「僕たちが解けない問題は当然あるわけで、そういうときに訊ねると、ラーマン先生はすらりと教えてくれます。知識は非常に豊富ですよ」と語った。どうやら彼は日本人的な「謙遜」をするタイプのようだ。

 最初のうち数学教育に力を入れていたのはダイヤモンド中学だけだったが、クラーク中学のダイヤモンド中学へのライバル心は年々強まり、優秀な数学教師が雇われて彼が率いる数学チームは徐々に力をつけていった。そして、モスカ先生がダイヤモンド中学を辞めた数年後には、万年トップだったダイヤモンド中学の数学チームはクラークにその座を明け渡すことになった。

 2004年に取材したとき、「レキシントン町の数学のレベルが高いのは、数学教育に熱心なアジア系移民の子どもが増えたからだ」と断言したアジア系移民の親がいた。たしかにこの町でアジア系移民は急増しているし、数学チームにはアジア系の生徒が多くなっていた。でも、それは「公教育のレベルが高い」「数学チームが強い」という評判に惹かれてアジア系移民がこの町を選んだ結果でしかない。この時にはすでに、レキシントン公立学校の数学のレベルを上げた貢献者たちの名前を知る人は少数になっていた。2021年の今は、すでに引退したモスカ先生やラーマン先生が作った小さな歴史はすっかり忘れ去られていることだろう。

 けれども、私は見えない場所で歴史を変えた英雄たちをずっと覚えていたいと思っているのだ。

 彼らが人生でやり遂げたことは、多くの子どもたちの未来を作ることだったのだから。

 

文:渡辺由佳里

『アメリカはいつも夢見ている』本文より抜粋)

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✳︎渡辺由佳里著『アメリカはいつも夢見ている』✳︎

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渡辺 由佳里

わたなべ ゆかり

エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家。助産師、日本語学校のコーディネーター、外資系企業のプロダクトマネージャーなどを経て、1995年よりアメリカ在住。ニューズウィーク日本版に「ベストセラーからアメリカを読む」、ほかにCakes、FINDERSなどでアメリカの文化や政治経済に関するエッセイを長期にわたり連載している。また自身でブログ「洋書ファンクラブ」を主幹。年間200冊以上読破する洋書の中からこれはというものを読者に向けて発信し、多くの出版関係者が選書の参考にするほど高い評価を得ている。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。著書に『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『どうせなら、楽しく生きよう』(飛鳥新社)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)、『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)などがある。翻訳には、糸井重里氏監修の『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)など。

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