宗教とカルトを分かつものは何か? 救済は果たして可能なのか?【大竹稽】
「なぜカルトにハマるのか?」救済と信仰を問う【第2回】
安倍元首相銃撃事件から再び浮上した統一教会問題。教団との深い関わりが発覚していた山際経済再生担当大臣がついに事実上の更迭に。宗教団体の政治との関わりや反社会的な活動の規制のあり方などをめぐってカルト規制法なるものも議論され始めた。一方で、そもそも人はなぜカルトにハマってしまうのか? この問いに向き合わねばならないだろう。「てらてつ(お寺で哲学する)」で有名な異色の哲学者・大竹稽氏が、「救済と信仰」を問いながら「カルトにハマるとは一体どういうことなのか?」について答えていく短期集中連載(全5回)の第2回。
◆ペストの災禍でカミュが見たものとは?
「皆さん、あなたがたは災いのなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのであります」と、一語一語、句切るようにして、痛烈な一句をまず会衆にあびせたとき、一種のざわめきが前庭の方まで会衆の間を走った。
初回では、「なぜカルトにハマるのか?」を問うことで、「わかる」イズムがわたしたちを抑圧し、思考をコントロールしていることを暴きました。その限りで、だれもがカルトにハマってしまうのです。今回は、『ペスト』を導き手にしながら「救済と信仰」を問うことを予告しました。
コロナ禍によって再注目され、世界中で爆発的ヒットをした小説ですね。アルベール・カミュがこの小説を発表したのが、1947年。あれから80年経っていますが、「救済と信仰」の問題は、いっそう撹乱させられているように感じています。
冒頭の一文は、ペストが猛威を振るい出したタイミングで行われたパヌルー神父による説教のシーン。宮崎嶺男先生訳の新潮文庫版から引用しました。
この小説で、パヌルーは博学で戦闘的なイエズス会の神父として登場します。イエズス会といえば、フランシスコ・ザビエルが私たちには馴染み深いでしょう。イエズス会はカトリック教会における修道会の一つです。
現在、日本で活動している他の修道会には、サレジオ会やドミニコ会などがあります。イエズス会の特徴は、パヌルー神父が形容されるような布教活動です。そもそも、イエズス会誕生の背景には、カトリック内部の改革がありました。従って、旧態依然や因循姑息、事なかれ主義などは、彼らの攻撃の的になります。そして、アジアや新大陸に、宣教師たちを命がけで送り込みました。
さて、オランの教会はペストの災禍に対して、祈祷週間を開催することで市民を教導しようと試みます。最後の日曜日には、聖者ロックに捧げるミサを開催することを決定しました。このミサの説教者として指名されたのがパヌルー神父でした。こうして説教が始まりました。
ところで、『ペスト』の中でパヌルー神父は二回、説教をします。そしてカミュは、主人公リウーを借りてパヌルーが拠り所にする「神による救済」と対峙します。この鬩(せめ)ぎ合いによって、パヌルー神父は自分の考えの誤りを認めることになります。そして、第二回目の説教では「あなたがたは」から「わたしたちは」へと、呼びかけ方が変わっていました。息が止まるほどスリリングな丁々発止、これが落ち着いていくシーンを引用しましょう。
パヌルーはつぶやいた。
「憤りはもっともなことです。しかし、憤りを感じるのは、わたしたちの尺度を超えたことだからです。それでも、わたしたちは自分たちに理解できないことを愛さなければならないのです」
リウーは、すっくと立ち上がり、あらん限りの力をこめて、ぐっとパヌルーを見つめた。そして頭を振った。
「神父さん、それは違います。愛というものはまったく違うものなのです。子供たちが責めさいなまれるような世界を愛せというのなら、わたしは命をかけて拒みます」
パヌルーの顔に影がよぎった。
「そうですね、先生。たった今、恩寵というものがわかりました」
リウーは再び、ぐったりとベンチに身を投じた。
「僕はあなたと議論したいわけじゃない。いっしょに行動することが重要なんです。神の冒涜とか、神への祈りとか、そんな次元を超えて僕たちを結びつけるなにかがある、そのためにいっしょに働くのです」
「確かに、あなたも人々の救済のために働いている」
パヌルーはリウーの横に座った。
「救済なんて、そんなたいそうなものではありません。僕がなによりも大切にしていることは、人々が健やかでいることなんです」
◆カミュの哲学の真髄と「救済の本質」
カミュの辞書に、「救済」という言葉はないのかもしれません。あるにせよ、救済は人々を跪(ひざまず)かせるものでは決してありません。むしろ「立ち上がれ!」です。そして、「いっしょに行動しよう!」、これこそカミュの哲学の真髄です。
前回、「カルトとはなにか?」への一般的な答えを整理して起きました。もう一度、振り返ってみましょう。「マインドコントロール」「思考や情報のコントロール」「他教団の敵視」「教団への絶対服従」、そして「批判的思考の排除」などです。
中でも、最も由々しく禍々(まがまが)しい特徴が、「批判的思考の排除」です。哲学が重んじることは「正しい答え(たとえ神が保証するものであっても)」より「自分の考え」です。荒っぽい言い方になりますが、「神より人」が哲学の、そしてカミュの信念になっているのです。とすると、救済もまた神を借りるのではなく、人間の手によってなされなければなりません。しかし、私たち人間に「他人の救済」は可能なのでしょうか?
ここからカルト問題を紐解いていこうと思います。わたしが用意している答えは、「他人の救済はできない」です。わたしたちは、どれほど高邁な志や、どれほどの時間や金銭の余裕があったとしても、他人の人生の肩代わりはできません。つまるところ、「自分で歩くから人生になる」のです。でも、共に歩き続けることはできるでしょう。これが唯一の救済になるかもしれません。この歩みは、互いに信頼し合う歩みです。
むしろ、「救済をあきらめる」から「信頼できる」ようになるはずです。
苦境にいる人に、「あなたを救います」ではなく、「自分で歩いてね。でも、わたしもいっしょに歩きます」と誘えるか?
この発言が、本来の宗教とカルトを分かつものです。
本来の宗教は、苦しみを取り除く答えなど用意していません。「わかったふりをする」など、宗教者として言語道断です。それこそ、神をも恐れぬ行為。神を自己都合で利用するだけの恥ずべき行為でしょう。このあたりの仕掛けを暴いたのが、ニーチェでした。
「答えはわからないけど、わからないままいっしょに歩いていこうよ」と人々を促せるか? 信仰に関する根本的な問題も、ここから洗い出していけるでしょう。
(第3回へ つづく)
文:大竹稽