元就を悩ませていた持病とは?
毛利元就の遺言状 第3回
謀略を駆使して、弱小領主から一代で中国地方を制覇した毛利元就。その死に際に、3人の息子に語ったとされる「3本の矢」の逸話は後世の創作とされるが、その遺訓には明治維新まで続く毛利家を守った「知恵」が秘められていた――。
ところで、吉川(きっかわ)家に伝わり、元春の子・広家(ひろいえ)が書き写した遺訓に、元就の「われ、天下を競望(けいぼう)せず」という言葉がある(注)。
元就は「一芸もいらず、技能もいらず、遊びもいらず、履歴もいらず、何もかもいりはしない。ただ、日夜ともに武略・調略の工夫こそ肝要である」(老翁物語)の信念のもと、75年の人生で二百数十回も戦い、ついに11カ国を制し中国地方の雄となり、天下を狙える地位を得た。
しかし「いま尼子(あまご)氏を討ち破って中国の覇者になったが、これは“時の運”であって、これ以上を望むべきではない」として、天下取りの野望を持たなかった。
『陰徳太平記』は、元就には、従来かく疾(吐き気を伴う胃病)の気があったといい、攻戦を茶飯とし、軍旅の霜雪、馬上の風雨に体を痛め、陣営での飲食を忘れての計謀に、積年の疲労がたまったと記す。
このために老いが進んで、たびたび病気となり、ついに75歳をもって郡山城に没したのだった。(続く)
注/関ヶ原合戦の翌年に書かれた元就の孫の吉川広家の覚書には、「私の祖父の毛利元就は、『11カ国を治めているが、これは時の運が良かっただけであり、子孫が天下をとろうなど思ってはいけない』と訓戒していました。父の吉川元春もこの訓戒を身内の者たちにいい聞かせていました」と記されている。
文/楠戸義昭(くすど よしあき)
1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。