分断から融和に向かうのは可能なのか? 「わかり合う」を目標にしてはいけない理由【大竹稽】
「なぜカルトにハマるのか?」〜分断から融和へII〜【第5回】
安倍元首相銃撃事件から再び浮上した統一教会問題。宗教団体の政治との関わりや反社会的な活動の規制のあり方などをめぐってカルト規制法なるものも議論され始めた。一方で、そもそも人はなぜカルトにハマってしまうのか? この問いに向き合わねばならないだろう。「てらてつ(お寺で哲学する)」で有名な異色の哲学者・大竹稽氏が、「救済と信仰」を問いながら「カルトにハマるとは一体どういうことなのか?」について答えていく集中連載(全5回)の最終回。
◆身体的な「正しさ」とはなにか
どうすれば、分断から融和へと進めるのでしょうか。初回で、その鍵は「身体性」にあると予告しておきました。
まずは、「正しさ」について思考実験をしてみましょう。
今、数人の仲間と暗い山道を歩いています。街灯はもちろん、懐中電灯もありません。携帯電話もありません。その道を、あなたはどのように歩きますか?
「オレが正しい」という人についていきますか?
『暗い山道の歩き方(喩え)』に書かれているような、一般解を頼りにしますか?
もちろん、どちらにも頼りにする、頼りにさせる理由があります。これらが要請されるシチュエーションもあるでしょう。しかし、最終的かつ根本的な「正しさ」は、「わたしの身体に従う」ことです。もしかしたら、消防隊員やレスラーのような人間が、おじいちゃんと一緒に歩くこともあるかもしれませんよね。
もちろん、「他の奴らはほっといて、オレだけズンズン歩けばいい」も「正しさ」の一つです。しかし、宗教者には容認されません。哲学者もまた、この問題に関しては宗教者と同じだと覚悟しなければならないでしょう。
自分以外の「正しさ」にも、参照される価値はあります。が、依存すべきではありません。信頼されるものは、何よりもまず己の身体です。身体は常に「正しく」動いているのですから。
これを身体的な「正しさ」とでもいいましょうか。この正しさは、各々違いますよね。
リーダーの正しさだけでは危険です。えてしてリーダーは、勇敢です。即断即決をするタイプも多いでしょう。身体能力にも優れている人も多いでしょう。しかし、それは自分のペースではありません。
しばしば、わたしたちは赫赫たる業績を残している有名人に引かれてしまいます。でも、大声で騒ぐ人の「正しさ」や、輝いている「正しさ」は、なかなか手に負えないですよ。身体は正直です。大声で騒がれたら耳が痛くなりますし、輝きはしばしば目を眩ませます。「正しい」と主張し、「わかる」に依存している人は、自身の身体の声に、意識を向けてみませんか。耳や目が苦痛を訴えているかもしれません。
正しい人の判断のみを頼りにして、全員が二人三脚のように足を縛って歩く。これがカルト的な歩き方といえます。これは我が身を滅ぼす所業です。では、足ではなく手を繋ぐのはどうでしょう? 手を繋ぐとき、二人の間には、自然な距離ができます。間合いとでもいいましょうか。この間合いが、自らの身体の声を聞くのに欠かせません。この間合いがあれば、自ずとゆったりしたペースになるでしょう。
導師という呼称が証するように、宗教者もリーダーの一人です。一緒に歩く人に、「自分についてこい!」ではなく、「自分で歩いてね。でも、わたしも歩きます」と伝えられるか。ここが肝になるでしょう。信者としては、「あの人についていけば幸せになる」のような信仰をしていないか、自問自答してみましょう。
依存し合う集団は、己の「正しさ」でもって別の集団を攻撃します。まずは、分断から融和へ至るためには、わたしたち自身を反省しなければなりません。
「お互いの正しさを尊重しているか?」
「わかったふりをしているのではないか?」
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