オスマン帝国から認められた英国人ムスリム:ウィリアム・ヘンリー・クイリアム【山本直輝】
イスラーム世界が歴史を動かす【山本直輝】
■英国イスラーム史において最も重要な英国人改宗ムスリム
1903年、英国初の改宗ムスリム貴族であったヘンリー・スタンレーの死を悼んでリヴァプールでは故人の礼拝(ジャナーザ礼拝)が行われた。この礼拝を先導したのもまた英国人改宗ムスリムのウィリアム・ヘンリー・クイリアム(1856 –1932年)であった。彼は英国イスラーム史において最も重要な英国人改宗ムスリムであり、リヴァプールでムスリム・コミュニティを作り上げた人物である。
■ヘンリー・クイリアムとイスラームとの出会い
ヘンリー・クイリアムは1856年、リヴァプールのキリスト教徒の家庭に生まれる。幼少期はマン島で育ち、キリスト教のメソジスト派としての教育を受ける。若いころは禁酒運動に参加していたようだ。1878年にはリヴァプールで研修を受けた後、刑法を専門とする弁護士となった。クイリアムは1882年に観光のためにジブラルタル海峡からモロッコに渡り、そこで初めてムスリム社会と接する。その後1887年にはイスラームに改宗したことをマスコミに発表し、「アブドゥッラー」というムスリム名を名乗るようになった。
彼の改宗のきっかけについては、キリスト教の三位一体が持つ思想的矛盾に疑問を抱いていたこと、また教会組織がヴィクトリア朝の階級社会に根ざす不平等を問題視せず黙認しているとの不信感を抱いていたことではないかという指摘がある。
またモロッコを訪れた際に、ユダヤ人とイスラーム教徒が共に食事をしているのを見て衝撃を受け、イスラームに興味を持つようになった。当時のイギリス社会はカトリックとプロテスタントの対立が根深く存在しており、宗派対立の解決策をイスラームが提示してくれるのではないかという期待がクイリアムにはあった。イスラームに対しては、クイリアムは特に飲酒の禁止とザカート(喜捨)制度に強く感銘を受けたそうだ。飲酒の禁止に関しては若い頃の禁酒運動、ザカートに関しては弁護士として働いていた経験から社会正義について関心が高かったことが影響していると思われる。
■リヴァプール・ムスリム学院の設立
イスラームへの改宗を発表した1887年の9月にはクイリアムは英国初のイスラーム施設であるリヴァプール・ムスリム学院を設立した。この学院は、アフガニスタンの首長からの寄付で購入した英国初となるモスクと、男女別のイスラーム学校、印刷所、孤児院、イスラーム文化博物館からなる複合施設で、地元の若者のためのさまざまな教育活動も行われた。このようにモスクを中心に様々な付属施設を建設することは伝統的なイスラーム社会の慣例である。彼はリヴァプールで600人を超える巨大なムスリム・コミュニティを作り上げることに成功する。
彼が発行した週刊紙『クレセント(三日月)』は、1893年から1908年までリヴァプール・ムスリム学院で発行され、80カ国以上で配布された。さらに彼は月刊誌『イスラーム世界』を、インドとマレーシアのムスリムからの寄付で1893年にリヴァプールのブロアム・テラスに設置された印刷機を使って発行した。また、『イスラームの信仰』という小冊子も執筆し、13カ国語に翻訳されたという。
このようにクイリアムの執筆活動は多岐にわたるが、彼の主な目的は「英語で英国社会にイスラームを紹介すること」だった。その中で彼は英国文化とイスラームの理念の融合のための実験的な試みもいくつか始めている。
例えばクイリアムは事実上の英国国歌である「神よ国王を守り給へ」のメロディーに乗せて歌われることを想定した「イスラームの賛歌」を書いている。
おお神よ、ムスリムの大義を祝福したまへ。
汝の法を守る者
善行に努めるすべての者を祝福したまへ
ムスリムの結束を守りたまえ。
この地、あまねく大地において
神よ、戦いに立ち向かえる力を
戦いの中でも揺るがぬ意思を与えたまへ
またクイリアムは英国社会への批判的な視点を失うこともなかった。出版活動を通して奴隷制度やヨーロッパの植民地主義に反対し、貧困に苦しむイギリス市民の権利を主張した。
さらに彼はパン=イスラーム主義の信奉者であり、オスマン帝国カリフや独立したイスラム国家の必要性を唱えていた。このような政治的姿勢は、彼のムスリムとしてのアイデンティティに加え、オスマン帝国がロシア帝国の拡大に対する最も強力な「防波堤」となり得ると信じていたことも背景にあると考えられている。
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